スコットランド・スカイ島への旅 桝井幹生
<昭和37(1962)年9月から昭和46(1971)年まで>

 いかなる縁(えにし)によるものか、詳しく述べる紙幅がないが、私は再び京都を離れ、三重県は四日市の高等学校に転じた。今度は県下屈指の進学校で、秀才が多く、ぼんやりしておれなかった。京都を離れてもブリカンとの縁は切れず、キングにも講演に来ていただいたり、名古屋在住のブリカン関係の英国人を紹介してもらい、ときどき同僚有志の勉強のため来ていただき、刺激を与えてもらった。マクドネル夫妻である。
 四日市着任の翌年結婚し、男女二人の子供の父親となった数年後の昭和42(1967)年の夏の終わりごろだったか、家内が小さな新聞広告で見たブリカンの給費留学生試験におそるおそる応募してみた。なんと受かってしまった!そして翌年勤め先から一年間の特別休暇をもらい、夏休みの途中ぐらいから英国海外航空のジェット機で羽田からロンドンに向かった。
 ロンドンでの二週間以上にわたる英語研修の期間は、まるで夢のようなものだった。至れり尽くせりのプログラムで、オペラ見物や、近郷の名所ツアーやらで楽しかった。研修後も10月からカーディフの学校が始まるまで、ブリカンの世話で下宿したB&B(Bed and Breakfast一種の民宿)でのほぼ一か月、あちこち歩き回った。ブライトンへ恩師キングに会いにいったのもこの頃だ。また、ロンドンに休暇で帰っていたマクドネルと息子さんのジム君とハイゲートあたりで再会もした。彼はまた日本に帰り、今度は南山大学勤務ということだった。
 カーディフの学校では、一年間で「外国語としての英語教授免許」(DIP. TEFL=Teaching of English as a Foreign Language)取得を目指すコースだ。われわれ三人の日本人や英国以外の外国人男女のみならず、外国で英語を教えたい英国人もいた。程度はお義理にも高いとは言えなかった。われわれ日本人が国の高校で教える英文法を得々と教える教授などおかしいくらいだった。勉強はそこそこにして、あちこち旅行したり、夕方は町に出てパブで生きた英語の勉強にいそしんだ。どうせ、こんな免許証(ディプロマ)をもらったって、どこかの外国へ行って英語を教えることもあるまい、と思ったからである。
 今回のエッセイでは、キャンセルしたイランの学生の代わりに運よく行ったスコットランドのスカイ島とスカイ島をテーマにした歌を紹介しようと思う。イースター休日の昭和44(1969)年4月3日から10日までの約一週間だった。
 まずカーディフ中央駅からマンチェスターまで鉄路の旅。マンチェスターではさらに北へ行く列車に乗り換えだ。時間があったので、かねて連絡しておいた同志社女子大学の小田幸信教授(キングス・カレッジのクラス・メート)のマンチェスター大学キャンパス内の宿舎モーブリータワーに会いに行く。しばらく歓談ののち、再びタクシーで駅へ向かう。タクシーの運転手は北行列車のホームが正しいか確かめる間待っていてくれた。お礼を言うと、向こうも「サンキュー、ルーブ」(Thank you, love!)と手を振って帰っていった。早速北国訛りとの出会いだ。
 グラスゴーからバス(イギリス流ではコーチ)で出発。総勢30余名のうち、国籍はまちまち、なかにアイルランドから来た女性もいる。アイルランドのゲール語地域では、5歳から英語は外国語として学ぶから、ブリカンで資格を取ることも必要なのだろう。イギリスにフランス語を教えるために来ているが、帰国して今度は英語を教えるフランスの若い女性たちもいる。
 歌で名高いロッホ・ローモンドを通り、ハイランド地方へと分け入って行く。グレン・コーという峠を下ると、怪獣で名高いネス湖に通じる鉄道の駅、フォート・ウィリアムに下る。すぐそこの対岸に橋をかければいいのに、バスはうんと北上し、入江の奥からUターンし、再びフォート・ウィリアムの対岸に引き返す。30分はゆうにロス。そしてついに夕方近く、スカイ島に渡る船着き場に到着だ。
 「ジャコバイト党の反乱」として数々の歌が残っている歴史は後に勉強することになるのだが、なぜこうもスカイ島に憧れていたかは、たった一枚のレコードによる。それは、日本コロンビアから発売された10インチのモノーラル・レコードで、もとは、
Skye Boat Song
Scotland’s Favourite Melodies
Rikki Henderson/Gordon Franks and Chorus
らしく、アマゾンから購入すると、日本盤と同じテイクだった。1962年頃の発売だから、日本盤は四日市のレコード屋で買ったものと思う。長い間家にあったが、他のトラッドのLPと共に処分してしまったらしい。さきほど言った「ロッホ・ローモンド」や「アニー・ローリー」などの外に「スカイの舟歌」が入っていた。日本盤では「スキーの舟歌」と誤記されていた。それほど遥か離れた島だったのだろう。だからこの歌の本場を是非ぜひ訪ねてみたかったわけである。「正調佐渡おけさ」を聴くため佐渡島に渡るようなものだ。例によって原詩と大意を交互につけておく。

Skye Boat Song (Sir Harold Boulton/Annie MacLeod 1884)
「スカイの舟歌」(ハロルド・ボウルトン/アニー・マクラウド)

(Chorus)
Speed bonnie boat like a bird on the wing
Onward the sailors cry
Carry the lad that’s born to be king
Over the sea to Skye

(コーラス)
小舟よ 飛鳥(ひちょう)のごと 疾(と)く進め
船頭たちが歌う
王と生まれしこの若君を
はるかスカイの島へとお連れ申せ

Loud the wind howls
Loud the waves roar
Thunderclaps rend the air
Baffled our foes
Stand by the shore
Follow they will not dare

強風が唸りをあげ
大波が吠え
雷(いかずち)が大気を裂く
なすすべ知らぬ敵は
呆然と岸ベに佇(たたず)み
追うこともせず

(Chorus)

Many’s the lad fought on that day
Well the claymore did wield
When the night came
Silently lain
Dead on Colloden field

白日のもと戦いし若者
よくぞ大刀を振いたるも
日暮(ひく)れなばことごとく討たれ
静かに屍(かばね)をさらす
カロデンの野辺

(Chorus)

Though the waves heave
Soft will ye sleep
Ocean’s a royal bed
Rocked in the deep
Flora will keep
Watch by your weary head

いかでか波高くとも
安らかに眠れ
この大海とて大君(おおきみ)の臥所(ふしど)
波にゆられつつまどろまれかし
フローラがお守りいたしますぞ
陛下の疲れし枕辺(まくらべ)に侍(じ)し
  
(Chorus)

 1745年、カロデンでイングランド軍との戦に破れたチャーリー・ステュアートは、女装させられ、フローラ・マクドナルドの案内でスカイ島に逃れた逸話にもとづく歌である。コーラスの部分が特に美しく、よく歌われる。今年平成3月、立命館大学茨木キャンパスで行われたバラッド協会会合終了後の懇親会で、同志社大学のフェリシティ・グリーンランド先生と合唱してしまったのはこの部分である。節は下のミディを参考にされたい。
https://www.8notes.com/scores/23899.asp?ftype=midi
ポートリィという町での歓迎会で、看護師さんだったと記憶するが、この歌を歌ってくれたが、その熱唱が今もなお心に残っていて忘れられない。

masui 1
CD masui


 バスで島内をくまなく見て回ったが、特筆すべきは、ダンヴィーガン城であろう。女城主の息子が、かいがいしくガイド役を務めていた。29代の城主となるべきジョン・マクラウド(John MacLeod、1935-2007)である。私より一歳年下である。一緒に写した写真が残っている。2007年、71歳で私より先に死んでしまった。インディペンデント紙の死亡記事に興味深いことが書いてあった。今上天皇がオックスフォード大学留学中の1984年、スカイ島を旅行された。そのとき、ジョンは陛下の得意なヴィオラで、おりからのスカイでの音楽イベントに参加してくれと依頼したそうである。陛下は快諾された。ジョンにとって記憶するに足る名誉なこととなったそうである。

 ジョンには、CDが一枚ある。
MacLeod of Dunvegan Lismor Recordings
ジョンは俳優、歌手などをやっており、このCDもバリトンのクラシック風の歌い方である。「スカイの舟歌」も収録されているが、アップテンポでなんだかそっけない。スカイのマクラウド家は、あのジャガイモ飢饉のとき領民の海外移住を許さず、島で保護した。善政を布(し)いた名君として名高い。  

写真の説明
(上) ジョンと共に。二人とも若いですね。
(下) これジョン?でもキルトの柄が一緒のようです。