―自粛のなかで思うこと―  辻井貴子

 自由にライブ活動を行うことができなくなってからおよそ半年が経ちました。国や地方自治体の仕組みの弱点が露呈するだけでなく、不安や恐怖と対峙した時の人間の弱さのようなものも見えてきて、こういう時にこそ音楽にできることはないのだろうかと、考えさせられることの多い期間でした。
 さて、私たちの音楽ユニット「やぎたこ」の直近のアルバムは、奇しくも『We Shall Overcome』というタイトルです。バラッド協会通信163でもご紹介頂いた本『URCレコード読本—アーティストたちの証言で綴る“日本初のインディ・レーベル”の軌跡—』(笹川孝司編、シンコーミュージック・エンタテインメント、2020年8月)に掲載されたインタビューも、このアルバムに関することが中心です。2018年のアルバム発売当時、まさかこんな事態になるとは思いもよりませんでしたが・・・。

 アルバムのタイトルにもなった、ピート・シーガーが聖歌を改作して作ったと言われる「We Shall Overcome」という歌は、アメリカでは公民権運動の際に、テーマソングのように皆に歌われていたと聞きます。1960年代、日本にアメリカのフォークソングが入ってきて、皆がこの歌を覚え大合唱していました。その時代からずっと歌い続け、今も現役でライブ活動をしている先輩ミュージシャンの方々に共演をお願いして製作したのが私たちの『We Shall Overcome』というアルバムです。既に鬼籍に入られた方もあり、今となっては1960年代当時の大合唱を再現することはできませんが、これからの時代にも残ってほしい歌がある、という思いを込めて選曲、製作をしました。アメリカ音楽に影響を受けて作られた日本語のオリジナルソングというコンセプトではありますが、中には、ドイツの劇作家ブレヒトが実話を元に書いた詩の日本語訳にメロディーを付けて歌にした、まさに物語歌とも言えるような作品も収録しています。

 アメリカ生まれのメロディーに日本語のオリジナルの詞をのせることで、原曲とは違う意味や内容になっていくことに賛否を唱える方もあるかもしれません。もちろん元々の起源やスタイルを知ることがとても大切だということに異論はありませんし、それを抜きには語れないことも数多くあるというのも理解できますが、同時に、国や時代によって形を変えながら歌い継がれてきた歌の歴史を思えば、もう少し自由でも良いのかなと感じることも少なくありません。特別な知識がなくても純粋に音楽として楽しめる歌。誰もが暮らしの中で口ずさんで憂さを晴らしたり、悲しみや不安を紛らわせたりすることができる歌。そんな歌が、時代を超えて長い間残っていくのではないかと思います。

 かつて「We Shall Overcome」が日本でたくさんの人たちに歌われていた頃の邦題は「勝利を我らに」でした。でも私にはあまりしっくりきません。今回、山中先生がこの連載エッセイにこの歌のタイトルを命名されたのはおそらく「苦難を乗り越える」という本来の意味を踏まえてのことと想像します。もちろん未知のウィルスは用心するべきですが、だからといって周囲の人やモノ全てを疑ったり恐れたりするあまり、他者を攻撃したり、排除してしまうようなやり方が良い結果を招くとは思えません。物理的な距離を置くことと他者との関係を絶つことは全く異なります。この歌の「We’ll walk hand in hand」という歌詞の通り、手を取り合い協力し合ってこそ苦難は乗り越られるはず。こんな時こそ相手の状況を思いやれる余裕が必要だと思うのです。

 「ツアー」と言うにはまだほど遠い状況ながら、私たち「やぎたこ」も最大限の対策を講じ、細心の注意を払いながら、少しずつ少しずつライブ活動を再開しています。換気をしながら少人数で、マスクの着用をお願いし、アクリル板を立てて・・・。そうした制約があろうとも「やっぱり音楽は良いね!」とマスク越しに小さく口ずさんだりリズムを取って身体を揺らし楽しんで下さるお客様の様子を目の当たりにするたび、歌や音楽は決して不要不急などではなく、生きるために必要なものなのだ、という思いを新たにしています。音楽は、肉体的な病を直接解決する力はないけれど、人間同士が力を合わせて何かに立ち向かったり、気持ちを鼓舞して勇気を出したりすることに関しては決して無力ではないと信じています。

 最後に、私たちもライブのたびに歌っている1800年代に生まれた名曲、フォスター「Hard Times Come Again No More」の現代ヴァージョンをご紹介したいと思います。皆が助け合って、この苦難を乗り越えられますように、一日も早くのびのびと音楽が楽しめる日が来ますように、そんな願いを込めて。