「どうぞ一杯やりに来て」の世の中を待ちわびて   喜多野裕子

 ウィリアム・シェイクスピアの生きた16世紀末から17世紀初頭にかけてロンドンはたびたび疫病に襲われ、3密である劇場は何度も閉鎖された。エマ・スミスは、「シェイクスピア作品中で疫病による犠牲者に最も近いのがロミオとジュリエットである」(「感染症とともに生きるとはどういうことか シェークスピアがおしえてくれること」『The Asahi Shinbun Globe+』https://globe.asahi.com/article/13391487)と述べている。
 ジュリエットの仮死とその後の逃亡計画を告げる手紙がロミオに届かなかったのは、手紙を託された修道僧が、病人を見舞い中の仲間を同行者として選んだため検疫官に疫病の濃厚接触者と疑われ、二人とも外出禁止となったからである。疫病によって重要な情報を記した手紙が宛先に届けられなかったことが、ロミオとジュリエットを自害に追いやった直接の原因である。当時の現実世界では劇場が封鎖され、劇中世界では感染症の濃厚接触者が隔離された。コロナ禍を経験中の私たちにとっては、ビフォー・コロナの頃よりも生々しく初期近代ロンドンの事情を感じることができるようになったしまった。だからこそ、上記のエピソードよりも『ロミオとジュリエット』(1595年頃初演)という作品のある面が気になっている。今、飛沫感染予防のために厳しく注意喚起されている「会食」にまつわることである。
 ロミオ・モンタギューとジュリエット・キャピュレットが出会い一目で恋に落ちるのはキャピュレット家で開催される宴である。そもそもロミオがキャピュレット家で宴が開かれるのを知るのは、文字が読めないキャピュレット家の使用人に、招待客たちの名前を読んでほしいと頼まれるからだ。読んでやったロミオに対して使用人は言うー「どうぞ一杯やりにお越しくださいな」(”come and crush a cup of wine”: 1幕2場77行)。むろん「あなたがモンタギュー家の方でないのなら」という条件付きだが、主催者でもないのに行きずりの見知らぬ者をパーティーに誘っている。この気軽さがなんとも魅力的である。そしてこのあと主催者キャピュレット氏も太っ腹なところを見せる。ロミオは招待客の中にこの時点での片思いの相手がいることを知り宴に潜りこむが、ジュリエットのいとこにいち早く気づかれてしまう。しかしその報告を受けたキャピュレット氏は、品行方正でお行儀がよいと評判の若者なのだから放っておけと言い放ち、ロミオを追い出すことはしないのだ。敵対する家の御曹司に対しておおらかな対応だ。主催者としてはせっかくのパーティーを流血沙汰にはしたくないという思惑あってのことだろうが、根底には「固いことは言わずに、歌や踊り、飲食はみんなで楽しもうよ」という精神がうかがえる。何百年も世界中で読み継がれ、演じ続けられているロミオとジュリエットのラブストーリーは、キャピュレット家の使用人と主人が持っていた、宴や楽しいひとときを一緒に共有しましょうという感覚が無ければ始まらなかったのではないだろうか。
 さて現在。2021年2月末で、京阪神地区では緊急事態宣言が当初の予定より一週間早く解除されることになった。感染再拡大を防ぐため、新型コロナウィルス感染症対策分科会は、解除後も「飲食はいつも近くにいる4人まで(同居家族を除く)」に絞ることを推奨している。窮屈な日々はまだ続きそうだ。大勢が集まる送別会や歓迎会、懇親会、あるいは偲ぶ会等々が対面で開催できるのはまだ当分先のことだろう。「いつもは近くにいないけど、今はたまたま隣にい合わせている」人々と実際にお会いして杯を交し合い、語らい、歌い―ひと時を共に楽しめる日々が早く戻りますように。

*初演の推定年代、原文の引用行数は、大場健司『ロミオとジュリエット』対訳・注解 研究社シェイクスピア選集5による。