日本とハンガリーの歌曲と帝国主義時代   佐貫瑞穂

 クラシック音楽の中での日本歌曲とハンガリー歌曲は、共に20世紀初頭に発展しています。この背景には、19世紀後半から20世紀にかけての世界情勢の影響がありました。
 この時代には、ひとつの文化基盤を持つ集団を基本とした「国民国家Nation State」の設立が相次いでいました。日本では、1853年のペリー来航を経て、1868年に明治政府が成立します。ハンガリーは1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国を形成し、1868年に民族法を制定しました。そして1870年代からは、行政、文化、教育等において非ハンガリー人へのハンガリー語の使用を義務付ける社会的圧迫がありました。1 
 日本については、岡本雅享「言語不通の列島から単一言語発言への軌跡」(2009)に、「明治27(1894)年の日清戦争を契機としてナショナリズムが高まる中、言語の統一、統一言語の策定を図ろうとする動きが、急激に進んだ」とあります。2  日本は方言差の大きい国ですが、東京の山の手言葉を基本とし、各地の方言の語彙を集めて、全国で通用する「標準語」が作られました。
 当時はまだ国境線が曖昧で、西洋列強は世界の各地へ勢力を拡大し、植民地を増やしていました。その中で「主権を持つ国民国家」として存在するにあたって、「ひとつの言語を話す民族集団」としてのアイデンティティを確立し、自分たちの国が西欧列強に比肩する価値を持つものであることを内外に向けて主張する必要があったのです。(実際には日本もハンガリーも、複数言語・複数民族を擁する国なのですが)
 この時流は音楽にも反映され、ドイツ・イタリアに対し周縁とされてきた地域の言語文化を持ち込んだ新様式が「国民楽派」の作曲家たちによって作られていきました。
 西洋歌曲では、基本的には詩が先に存在し、作曲家が後から曲をつけるため、メロディーは詩の形式や言語それ自体が持つ形態からの影響を受けます。(バラッドでもひとつの歌詞から様々なメロディーが生まれている様子をよく見かけますね。バリエーションを探すのが楽しみでもあります。なお、替え歌や民謡的有節歌曲の2番以降のように、曲が先にある例外的なものもあります)ドイツ圏やイタリア語圏で発達した和声法、対位法といった音楽理論を用いて日本語、ハンガリー語の歌曲を作る際には、西洋音楽との旋法の違いや言語的距離、詩形の差などが問題となりました。
 聴き手に馴染みのない旋法は真似をして歌うことが難しく、受け入れられにくかったのです。また、異なる言語体系を前提にした詩形や音形を日本語やハンガリー語にそのまま適用すると、「その言葉として聞こえるように作曲する」ということが困難です。
 日本では、1879年に音楽取調掛が発足し、西洋音楽の形式を使いながら日本の聴き手に受け入れられるよう東西の音楽を折衷した「唱歌」が作られ、音楽教育に用いられました。
 唱歌の形式は、日清戦争・日露戦争の軍歌を通じて大人にも広まりました。3  なおハンガリーの教育の場面ではドイツ音楽が優勢だったようで、バルトークもドイツ音楽の教育を受けています。また、日露戦争はハンガリーから日本への関心が高まる契機ともなりました。
 統一して用いることが出来る言語、西洋音楽の普及という要素は揃いましたが、言葉の距離はいかんともしがたいものです。信時潔は「歌詞とその曲」(1964)で、アクセントとメロディーの融通や、カナ数と拍数の不一致・和歌の短さによる作曲上の問題を振り返っています。4 
 そこに活路を開いたのは、ドビュッシーの音楽でした。折よく20世紀初頭のヨーロッパの作曲家たちは、飽和状態にあった機能和声を離れようとしていました。ドビュッシーは1889年パリ万博でアンナン(ヴェトナム)劇とジャワのガムラン音楽に触れて衝撃を受け、4音、5音からなる全音音階を用いた音楽を制作しています。5  この全音音階に、ハンガリーの作曲家と日本の作曲家は、「東洋的な響き」を聞き取ったのです。
 バルトークはコダーイと共に1905年に民謡採集旅行を始め、ハンガリー民謡に「一見オリエンタルな特徴 6」を持つ五音階を発見し、ドビュッシーの五音階との類似を見出しました。7  コダーイの最初期の歌曲「Éneksó Op.1(1907-1909)」には、ドビュッシーが使っていたような分散和音の伴奏や、アウフタクトのリズムが見られます。(バルトークの創作歌曲については、今調べているところです)
 山田耕筰も1918年から1919年に日本の伝統音楽を研究し、1922年の歌曲『病める薔薇』では都節音階の旋律にドビュッシーの全音音階の手法で和声をつけています。8 
 全音音階には、機能和声で大きな役割を担う半音が含まれません。そしてハンガリー民謡にも日本の律音階にも、五音からなる全音音階が元々存在します。その点が機能和声からの脱却・民族音楽の西洋音楽への組み込みの双方に都合よく働き、作曲家の関心を引いたのでしょう。
 言語と音楽は、「中央」に比肩する文化を持つ国民国家としてのアイデンティティを主張する道具となり、文化接触の媒体となりました。そして戦意高揚に用いられ、民族主義を補強する材料ともなりました。この時代の音楽について調べていると、帝国主義時代の外交、内政、物流がもたらした光と影を否が応でも感じさせられます。人や物や価値観の国際的な動きによって、ある集団の内側のものが排斥されたり、はたまた再評価されたりする様子には、今の時代にも通じるものがあるかもしれません。

注:
1 Barany George「ハンガリーのナショナリズム」209ページ。
2 岡本雅享「言語不通の列島から単一言語発言への軌跡」19~20ページ。
3 千葉優子「ドレミを選んだ日本人」98~99ページ、112ページ。
4 信時潔「歌詞とその曲」信時裕子編『信時潔音楽随想録集 バッハに非ず』119~125ページ。
5 虫明知彦「ドビュッシーの作品におけるガムラン音楽の変容 :-1903 年作〈パゴダ〉と1889 年パリ万国博覧会で展示されたガムラン音楽-」1~22ページ。
6 バルトーク・ベーラ「ハーヴァード大学での講義」伊東信宏・太田峰夫訳『バルトーク音楽論選』220~221ページ
7 バルトーク・ベーラ「ドビュッシーについて」伊東信宏・太田峰夫訳『バルトーク音楽論選』182ページ。
8 「ドレミを選んだ日本人」150ページ。


<参考文献>
伊東信宏「バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家」中公新書、1997年。
近藤正憲「戦間期における日洪文化交流の史的展開」1999年。(千葉大学博士論文)
千葉優子「ドレミを選んだ日本人」音楽之友社、2007年。
中村隆夫「ハンガリー民謡とZ・コダーイ4つの歌曲」『北海道大学紀要.第1部.C教育科学編』Vol.37、No.2、1987年、141~155ページ。
信時潔「農民音楽の近代音楽への影響――ベラ・バルトークの音楽論」信時裕子編『信時潔音楽随想録集 バッハに非ず』アルテスパブリッシング、2012年、49~54ページ。(原出典:『心』生成会、1953年6月号、22~26ページ)
Barany George著、東欧史研究会訳「ハンガリーのナショナリズム」Sugar F. Peter, Ivo J. Lederer編『東欧のナショナリズム』、刀水書房、1981年、194~256ページ。
Bartók Bela「バルトーク音楽論選」伊東信宏・太田峰夫訳、ちくま学芸文庫、2018年。
虫明知彦「ドビュッシーの作品におけるガムラン音楽の変容 :-1903 年作〈パゴダ〉と1889 年パリ万国博覧会で展示されたガムラン音楽-」『東京音楽大学大学院博士後期課程 2018年度博士共同研究A報告書《モデル×変容》』東京音楽大学、2019年、1~22ページ。