英語圏における伝承バラッドの研究―録音文化としての展開

科研費採択研究課題の概要

(2010-2012年度科学研究費補助金 基盤研究(C) 課題番号22520147 研究代表者 高松晃子)

研究目的(概要)

新たなバラッド伝承の源としての録音文化
研究対象であるバラッドとは、欧米各地で口頭により伝承されてきた物語歌である。1950年代以降は多数のバラッドが職業歌手により録音され、現代におけ る有効な伝承形態となっている。にもかかわらず、商業ベースに乗った録音は学術的な研究の対象と見なされることが少ない。そこで本研究では、英語圏のバ ラッドが口頭文化から録音文化へ移行する過程で、録音が新たな伝承の源となりつつあることを踏まえ、録音文化におけるバラッドの歌詞と旋律が、どのような 形に収斂または拡散する傾向にあるのかを明らかにする。

①研究の学術的背景―文字から現象へ では実体は?
従来のバラッド研究は、文学的見地から行われることが多かった。これは、18世紀以来の収集・創作ブームに加えて、アメリカの文学者フランシス・ジェイム ズ・チャイルド(Child, Francis James 1825-1896)が、『イングランドとスコットランドの民衆バラッドEnglish and Scottish popular ballads』 (vols. 1-8, 1886-1898)を出版した影響が大きい。この著作は、2002年から2008年にかけて新版が完成(Looms House Press)、日本でも2005年に全訳(『全訳チャイルド・バラッド』全3巻、音羽書房鶴見書店)が刊行されるなど、現在も資料価値が高い。

いっぽう、音楽が注目されたのはようやく20世紀半ばで、バートランド・ハリス・ブロンソン(Bronson, Bertrand Harris 1902-1986)による『チャイルド・バラッドの伝承チューンThe traditional tunes of the Child ballad』(vols.1-4, 1959-1972)は、旋律ヴァリアントの集大成として、チャイルドの著作とともにバラッド研究の双璧を成している。

家庭や地域といった比較的狭い範囲で口頭により伝承されてきたバラッドは、1950年代初頭の米英に始まったフォーク・リヴァイヴァルを経て、 フォーク・クラブや演奏会、録音といった新しい演奏の場を獲得した。音楽ジャンルの上でも、ポピュラー音楽に吸い上げられていった。リヴァイヴァル以降、 バラッドを取り巻く状況は主に社会学的研究の対象となり、Georgina Boyes による The imagined village, 1993; Niall Mackinnonによる British folk scene, 1994; Ailie MunroによるThe democratic muse: folk music revival in Scotland, 1996などの著作が現われた。ただ、新しくポピュラー音楽として生まれ変わったバラッドそのものについてはほとんど研究がない。音楽研究や演奏研究とし ては、GowerとPorterによるジーニー・ロバートソン研究(1968,1970,1976,1988年)やWilliamsonの博士論文 (1985年)などがあるが、これらはひとりの歌い手に焦点を当てた記述で、録音文化におけるバラッドの総体に目配りしているとは言いがたい。ポピュラー 音楽に吸収されたバラッド歌唱を、一アーティストの個性の表出と見ることは可能だが、不特定多数に開かれた新たな伝承のきっかけとして積極的に評価するこ ともできよう。この発想が本研究の出発点となっている。

申請者は手始めとして、《酷き母The cruel mother》というバラッドについておよそ50種の録音を収集し、これら の歌詞表現の傾向や旋律ヴァリアントの広がり具合について、チャイルドの全集およびブロンソンの旋律集と比較しながら整理した。その結果、録音版の語りと 伝承版の語りの間に明らかな相違があることがわかった。この内容は2009年10月25日に日本音楽学会全国大会で発表したが、本申請研究において、対象 曲を増やして継続、発展させ、より充実した結論-新たな伝承の源の様相―に導きたいと考えている。

②研究期間内に何をどこまで明らかにしようとするのか
1.録音データベースの作成
いわゆる「チャイルド・バラッド」全305曲中、現在もよく歌われるレパートリー20曲の録音資料を収集し、歌詞の聞き取り、旋律の採譜を行なう。演奏者名、演奏者の地理的文化的背景、録音年といった基本的なデータとともに、これらをデータベース化する。
2.新たな伝承の源とは
各曲の録音資料の傾向を調査する。バラッドのパフォーマンスが、当事者の顔が見える口頭伝承から不特定多数の聴衆に開かれた「録音」というメディアに移行する過程で、歌詞と旋律がどのような傾向で収斂あるいは拡散してきているかを明らかにする。

③当該分野における本研究の学術的な特色・独創的な点及び予想される結果と意義
学術的な特色・独創的な点

1.音楽そのものへの目配り 
こ れまで、現象としてのリヴァイヴァルやポピュラー音楽文化に対する社会学的アプローチは多いが、音楽そのものに向けられる視線は冷淡であった。しかしなが ら、口頭伝承文化が失われつつある現在、ほかのどこよりも歌われ、聞かれているのが録音文化の仮想コミュニティにおいてであるとすれば、新たな伝承の源が どのようなものであるか、明らかにする必要がある。
2.「歌う」「演奏する」「聞く」行為への目配り
従来のバラッド研究では、声に出して歌うときに起こり得る事態に対する配慮が希薄なため、時に説得力を欠いた。しかし申請者は、実際の演奏はしばしば楽譜 どおりにはならないことを、経験から学んでいる。本研究では、音を出す時に生じる技術的な問題を考え合わせ、無理のない考察をしたい。また、現代の若手演 奏家がバラッド演奏に取り組む場合、まず手本として他の演奏家による録音やライブ演奏を聞くことから出発することが多いことを考えると、伝承の源となる録 音資料が伝えるものを、可能な限り掬い上げることが必要になる。
予想される結果と意義
先の学会発表のために、バラッド《酷き母》について一連の作業をしてみたところ、次のようなことがわかった。
1.不特定多数の聴き手に親切な語りへ
録音版の歌詞には、単なる時間稼ぎの反復などは少なくなり、断片的な語りから秩序的、説明的な語りへ整えられてきている。日本の伝統芸能が、新しいオーディエンスに配慮して試みていることとよく似ている。
2.旋律数の減少と音楽パフォーマンスの多様性
音楽の方は、旋律の種類が減少しているが、同じ旋律でも個々のパフォーマンスの差異が大きくなっている。つまり、数的には収斂・質的には拡散傾向にあるといえる。

本研究では、上の結果が他のバラッド演奏にもあてはまるという仮説にもとづき、収斂と拡散の具体的な内容を明らかにする。

意義としては、次のようなことが考えられる。
1.音楽文化伝承のヒント
地域性に深く根ざしていた口頭伝承が、録音というグローバルな伝承に取って代わられることによる変容の問題に対して、ひとつのモデルを提供することができる。これは、他の伝統音楽文化の伝承を考えるうえで、大きなヒントとなろう。
2.バラッド研究の構造改革
バラッド研究は、アカデミズムと接点の少ない多くのバラッド愛好家との連携が必須である。伝承の実体を踏まえた現実的な論考を展開することで、幅広い層にアピールできるだろう。