ヨーロッパ文学の中のデンマーク・バラッド  奥山裕介

日本バラッド協会第13回(2022)会合において発表された研究論文 (会合発表資料からお読みいただけます)


1. 近世のバラッド蒐集・編纂
 デンマークでは、16-17世紀にかけて歌謡本(visebog / poesiebog)が貴族階層の間に普及し、49の手書稿本が伝存している。と同時に、人文主義と印刷技術の普及にともない古歌謡収集の気運が貴族社会で高まる。
 修史官アナス・サアアンスン・ヴィーゼル(Anders Sørensen Vedel 1542-1616)は口承・書承の古歌を貴族階層の女性から採集し、『デンマーク・バラッド百選 It Hundrede udvaalde Danske Viser』(1591年)を版行した。文法学者ピーザ・スュウ(Peder Syv 1631-1702)は、ヴィーゼルの歌謡集を大幅に追補し『デンマーク・バラッド百選補遺』(1695年)を刊行した。その他、地方の貴族女性によるバラッド蒐集事業としては、メデ・ゴイイ(Mette Gøye 1599-1664)が恋愛バラッド集『トラギカ Tragica』(1657年)を編纂した。さらにカーアン・ブラーア(Karen Brahe 1657-1736)は、約200篇のバラッドふくめ3400点にのぼる印刷物と約1150点の手書稿本を収めた「貴族令嬢修道院図書館」を1716年に私設した。
 シュレースヴィヒ出身のH・W・ゲルステンベルク(1737-1823)は、エッダやスカルド詩のような古ノルド語韻文、『オシァン』、パーシー『古英詩拾遺』など北方文学の独自的価値を強調した。古典的教養に対する北方世界の独立性を主張するこのような思潮は、「ゲルマン・ルネサンス」と呼ばれる。ドイツ語とデンマーク語のバイリンガルであるゲルステンベルクは、宰相ベアンストーフの招請を受けてコペンハーゲンに移住、詩人F・G・クロプシュトックらとともにドイツ人サークルの中心人物となり、ヨハネス・イーヴァル(Johannes Ewald 1743-81)やシャク・フォン・スタフェルト(Schack von Staffeldt 1769-1826)らデンマーク語詩人がバラッド詩を書く契機となる。

2. ゲルマン・ルネサンス期以後のデンマーク・バラッドの伝播
 デンマークのバラッドはやがてドイツ語圏と英語圏に紹介され、18世紀の文学者による古歌蒐集や創作の中に取り入れられることとなった。
 J・G・ヘルダーはスュウとゲルステンベルクを範として『民衆歌謡』(1778-79年)を刊行した。収録歌「ハンノキの王の娘 Erlkönigs Tochter」はデンマーク・バラッド「妖精の一撃 Elverskud」からの改作で、ゲーテの詩「ハンノキの王 Erlkönig」の素材となった。
 また、『古デンマーク語の英雄歌謡・バラッド・おとぎ話』(1811年)を刊行したW・C・グリムは、それまで13-16世紀と考えられていた英雄バラッドの成立時期を、ゲルマン民族移動期の5・6世紀に更新した。一方で、デンマーク・バラッドを他のゲルマン語文学と別系統に位置づけ、その独自性を強調した。成立時期に関する彼の推論はのちに誤説と判定されるが、デンマーク・バラッドの独立性に関する彼の所説は今なお支持されていて、デンマーク文学史における「フォルケヴィーセ」の国民文学としての評価に根拠を与えた。
 さらに、グリムの著作を通じて北欧の言語遺産に関心を抱き、創作に取り入れた代表例として詩人ハインリヒ・ハイネがいる。パリ移住後に書かれた『四大の精霊 Elementargeister』(1837年)で、デンマーク・バラッドに登場する妖精や水妖といった反キリスト教的形象に注目している。同著のフランス語訳は『ドイツについて De l'Allemagne』(1835年)に収められた。また、未完の怪奇小説『フォン・シュナーベレヴォプスキ氏の回想より』(1833年)にはデンマーク・バラッドからのアダプテーションが多数みられる。さらに『新詩集』(1844年)所収の「水妖 Die Nixen」はデンマーク歌謡「妖精の丘 Elverhøj」から着想された。
 英語圏でのデンマーク・バラッド受容史は、ドイツ語からの重訳から始まった。ゲーテやビュルガーに倣ってバラッド詩を創作したM・G・ルイスは、ゴシック小説『マンク』(1796年)にデンマーク・バラッド「水の王」を挿入しているが、これはヘルダーからの重訳である。デンマーク・バラッドを原語から翻訳した最初の例は、ロバート・ジェイミソンの『民衆バラッドと歌謡』(1806年)を待たねばならない。
 ルイスとジェイミソンを介してデンマーク・バラッドに関心を抱いたウォルター・スコットは、『湖の麗人』(1810年)にヴィーゼルとスュウから着想された歌を作中に2篇挿入している。
 ジョージ・バロウの『ロマンティック・バラッド集』(1826年)には近代の英語詩・北欧語詩のほか、デンマーク・バラッドも収録され、「未開なる荘厳(barbaric grandeur)」と評価されている。

3. 「バラッド」から「フォルケヴィーセ」へ
 デンマークでは牧師N・F・S・グロントヴィ(Nicolai Frederik Severin Grundtvig 1783-1872)が北欧民族固有の言語文化の価値を宣揚し、民衆の間で育まれた「声の文化」の復権を説いた。その息子スヴェン(Svend Grundtvig 1824-1883)は、第一次スリースヴィ戦争(1848-50)への従軍を経て、『デンマークの古いフォルケヴィーセ Danmarks gamle Folkeviser』を断続的に刊行、英雄バラッドを国民精神高揚に利用した。一方で彼は、英語・スコットランド語・フェーロー語のバラッドとの比較にも関心を示し、F・J・チャイルドに書簡で分類法を伝授した。
 さらにイーヴァル・タング・クリステンセン(Evald Tang Kristensen 1843-1929)は、ユラン半島各地のフォークロアを重点的に収集し、3348人からの聴き取りを行なった。東部の島嶼地域にはほとんど調査に出かけなかったが、全国の同好者と広く協力関係を結び、3000のフォルケヴィーセを含む膨大なフォークロア資料を集成した。実地調査では速筆の才を発揮したうえ省略記号を独自に改良することで、語り手の話を中断することなく、24000ページにのぼる緻密なフィールドノートを作成した。職業カメラマンを同伴し蓄音機も活用しながら、地方言語や生活環境の差異、インフォーマントの個人史まで記録に反映した。

むすび
 デンマーク・バラッドの蒐集・編纂・翻訳・アダプテーションの歴史を以下のように整理することができよう。18世紀のゲルマン・ルネサンスの潮流とともにデンマーク・バラッドが盛んに紹介され、周縁、質朴、高貴なる野蛮、神秘性といったクリシェーに縁取られた「北欧」像が形成された。独英の文学者によって形成されたこのような地域イメージは、19世紀デンマークの国民アイデンティティの拠り所として逆輸入的に参照されることとなる。国民ロマン主義の高揚にともない、ヴィーゼルやスュウを祖本とする英雄バラッドがスカンディナヴィア民族固有の遺産として特権化され、ドイツ語圏からの文化的自立の根拠とされた。