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民謡のナショナリティについての一考察
“Princess Royal”の起源をめぐる英国、アイルランド間の論争を例に 寺本圭佑_(2013/4)
何世紀ものあいだ交流があった英国とアイルランドで、歌や音楽が越境するのはごく自然なことのように思われる。たとえば英国の “Green sleeves” はアイルランドでも歌われており、アイルランドの “Cailín ó chois tSiúire mé” は英国でも演奏されていた。一方、民謡は作者や成立年代が不明なことが多い。そのため、民謡の起源を特定するのが困難な場合もある。
19世紀末、ある民謡の起源をめぐり、英国のキッドソン Frank Kidson (1855-1926) とアイルランドのフラッド William Henry Grattan Flood (1857-1928) の間で激しい論争が展開されていた。俎上にあげられたのは “Arethusa” または、“Princess Royal” というタイトルで知られていた曲である。本稿では民謡の起源が重要な問題に取り上げられた例として、ふたりの音楽学者のあいだで繰り広げられた論争の経緯とその背景について考察してみたい 。1
発端となったのは、1894年10月1日付の音楽雑誌 The Musical Times(以下MT)に、キッドソンの記事 “New lights upon old tunes, “The Arethusa”” が掲載されたことだった。当時 “Princess Royal” はアイルランド人ハープ奏者カロラン Turlough O’Carolan (1670-1738) の作と考えられていたが、元々英国の音楽だったものをカロランが自分の曲として採り入れたのだとキッドソンは主張した。2
これに対しフラッドは、1902年5月1日付の MTに “The Irish origin of Shield’s ‘Arethusa’” という記事を投稿し反論を行った。
キッドソンは1904年に音楽事典 Grove’s Dictionary of Music and Musicians の項目 “ARETHUSA, THE.” に「国民的旋律の特徴を持った、雄々しくも美しい英国の曲に対して、多くの誤った発言が見られる」と書きフラッドの意見を否定している。
一方、フラッドは1905年の著書 The Story of the Harp で “Princess Royal” はカロランの作品であるという自説を繰り返している。さらにフラッドは1910年11月1日付の MT で、“Princess Royal” の論争を再燃させる。
キッドソンは翌月12月1日付の MT で、「先月のフラッドの記事は “Princess Royal” に新たな光明を投じるものではないし、私の1894年10月の記事や Grove での主張を覆すものでもない」と断じている。
年が明けた翌月、1911年1月1日付の MT でフラッドは、キッドソンが自説に固着していることについて批判している。
このフラッドの記事の直後にブロードウッド Lucy Broadwood (1858-1929) が、民謡の起源をめぐるこれらのやりとりについて次のように疑義を呈している。彼女は「誰が結論を出すことができるのか。また結論を出す必要があるのか。どの船乗りが、兵士が、あるいはジプシーがはじめてその歌を歌った、あるいはその歌を学んだといえるだろうか」と書いている。
結局、2人の音楽学者は互いの主張を曲げることなく、MTにおける “Princess Royal” の論争は収束を迎える。3 彼らはなぜ互いにかみ合わない不毛な論争を続けていたのだろうか。
ここで、アイルランドと英国のそれぞれの立場からこの民謡の背景について考察しよう。 既に述べたとおり、アイルランドでは “Princess Royal” が盲目のハープ奏者カロランの作品だと考えられていた。カロランは特に死後、偶像化されるようになり、作家ゴールドスミス Oliver Goldsmith (1730-1774) は彼を古代アイルランド文化の最後の継承者として称えた。4 18世紀後半にはカロランは国民的音楽家と見なされるまでになっていた。5
そもそもカロランは盲目であり、自筆譜がひとつも存在していない。彼の演奏は他のハープ奏者や音楽家によって口頭伝承された後、楽譜に書き起こされた。したがって、カロランのアトリビュートの大半はもともと曖昧なものなのである。実際に18世紀の出版譜や手稿譜で “Princess Royal” とカロランを関連付けて記録されたものは存在しない。6
1840年、バンティング Edward Bunting (1773-1843) がはじめて “Princess Royal” をカロランの作品として出版した。彼は盲目のハープ奏者オニール Arthur O’Neill (1734?-1816) からこの曲を採譜していた。7
論争が行われた19世紀末、アイルランドは英国の長い植民地支配から独立しようとしていた。8 このとき、アイルランド人の文化的アイデンティティの拠り所ともいうべきカロランが作曲したとされる “Princess Royal” が、元々英国の曲だと主張されたことに対して、フラッドは「心情的に」耐えられなかったのであろう。9
一方英国では、1730年代にロンドンで出版されたフルートのための曲集に “Princess Royal” が収められている。10 その後、ニューカスルの作曲家シールド William Shield (1748-1829) がバラッド・オペラ “Lock and Key” (1796) の “Arethusa” という歌に、 “Princess Royal” を採り入れたことでこの曲は有名になった。11 バラッド・オペラとは当時流行していた民謡等を編曲し、組み合わせて作るものだったので、シールド自身が “Arethusa” を自分の作曲だとは主張しているわけではない。
この曲が英国の国民的な音楽とみなされるようになったのは、1895年からロンドンで開催されているBBCプロムスの影響が大きいだろう。この定期演奏会を長年指揮していたウッド Sir Henry Joseph Wood (1869-1944) が自ら作曲した “Fantasia on British Sea Songs” (1905) の中に “Home, Sweet Home” や “Rule, Britannia” などの愛国曲とともに “Princess Royal” を採り入れた。この曲は長年、最終夜に演奏され続けてきたので、英国の曲という印象を持つようになった人が多くなったと思われる。
ウッドが “British Sea Songs” を書いた1905年、英国の民謡収集家シャープ Cecil Sharp (1859-1924) が “Bold Nelson’s Praise” という歌をウォリックシャーの老人から採譜していた。この歌の旋律に用いられていたのが、“Princess Royal” だった。言うまでもなく “Bold Nelson” とは英国の英雄ネルソン提督であり、この曲が採譜された1905年は、トラファルガー海戦の100周年で盛り上がっていた時だった。これからも当時 “Princess Royal” が英国の愛国的な民謡と結び付けられていたことが考えられる。12
他方で、英国を代表する作曲家ヴォーン・ウィリアムズ Ralph Vaughan Williams (1872 -1958) も軍楽隊のための “English Folk Song Suite” (1923) の第2曲に “Princess Royal” を採り入れていた。13
このように論争が行われていた20世紀初頭の英国では “Princess Royal” が様々な場所で取り上げられ、演奏されることで、国民的音楽とみなされるようになっていった。
民謡は共同体への帰属意識を再認識させる機能を持っている。“Princess Royal” はアイルランドと英国の双方にとって、国民的な音楽とみなされていたために、その起源をめぐる論争に終着点が見出せなかった例である。14
(ちなみに私が金属弦ハープで演奏している “Princess Royal” はこちらからお聞きいただけます。 http://www.youtube.com/watch?v=mNs-RqCsh_8)
(註)
1 この曲は歌詞が付けられて歌われることもあれば、純粋な器楽曲として演奏されることもあったが、本稿では便宜上「民謡」という単語を使うことにする。
2 キッドソンは、カロランが英国由来の “Rummer” を “Bumper Squire Jones” という自分の作品に書き換えた例を挙げている。またタイトルに見られる「プリンセス・ロイヤル」をジョージ2世の王女アン Princess Ann (1709-1759) と同定している。
3 フラッドは1927年の History of Irish Music の中でも自説を繰り返している。
4 Goldsmith, Oliver. / Cunningham, Peter (ed.) (1760/1854). “The History of Carolan, the last Irish Bard.” The Works of Oliver Goldsmith. (271-272). London.
5 寺本圭佑「アイリッシュ・ハープの歴史~18世紀末の復興運動の背景~」CARA第19号、日本ケルト協会、2012年、49-50頁。
6 “Princess Royal” の曲がカロランの作品とはじめて関連付けられたのは、1810年の O ’Farrell’s pocket companion for the Irish or union pipes, IV においてである。だが、こ のときは “Princess Royal” ではなく “Air by Carolan” というタイトルが用いられていた。
7 Bunting, Edward. (1840/2002). The Ancient Music of Ireland, Dublin. サブタイトルとして “The MacDermots Daughter of Coolavin” と書かれている。マクダーモット・ロー家はカロランのパトロンだった。
8 論争が行われていた20世紀初頭、アイルランドは英国に併合されていた状態で、1921年にようやく独立を果たす。
9 フラッドの著作や論文は自説の典拠を明示しないことが多く、彼の記事には信憑性が疑わしいものも含まれる。
10 Wright, Daniel. (c.1735) The compleat tutor for ye flute, London.
11 シールドはアイルランドの劇作家 John O’Keefe (1747-1833) からアイルランドの音楽を教わっており、バラッド・オペラ “The Poor Soldier” (1782) にカロランの曲が採り入れられている。ちなみにアレシューサとは、アメリカ独立戦争の際にフランスと戦った英国海軍の軍艦の名前である。
12 Sharp, Cecil. (1916/1975) One hundred English folk songs, New York. ちなみにシャープがこの曲を1916年に出版した際には、「カロランのアトリビュートが与えられることもある」と記しており、特に英国起源であることを強調しているわけではない。
13 この第2曲は翌年に “Sea Songs” という独立した作品として発表される。
14 本稿では詳しく述べられなかったが、 “Princess Royal” はスコットランドでもよく演奏されており、多くの資料にも記録されていた。