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Flora MacDonaldと“The Skye Boat Song”  上岡サト子

I はじめに
 “The Skye Boat Song”をNHK TVの英語中級講座で初めて聞いてから随分と時間が経っている。この歌が流れて来たとき、私は側にあったテープデッキのボタンをとっさに押していた。

Speed bonnie boat, like a bird on the wing,
Onward , the sailors cry
Carry the lad that’s born to be King
Over the sea to Skye

1745年にスチュアート朝復興の希望を持って決起されたジャコバイトの反乱は、1746年4月16日にカロデンの戦いで、カンバーランド指揮下の政府軍に敗北し終わっ た。「屠殺者」の異名を取ったカンバーランドの反乱参加者への厳しい追及が始まった。Prince Charles Edward Stuart、the Young Pretender(若王位僭称者)、愛称Bonnie Prince Charlie は父祖の君臨地で逃亡者として放浪することになる。同歌の3連には、Floraという女性が登場する。

Though the waves leap, soft shall ye sleep
Ocean’s a royal bed
Rocked in the deep, Flora will keep
Watch by your weary head

Flora がその名を歴史にとどめたのは、Prince Charlesの国外脱出の手助けをしたからである。チャイルド・バラッドの“Barbara Allen”(#84)の伝承を追って北米大陸に目を向けていた頃、この女性の足跡を意外な場所で発見した。彼女は、夫のAlan MacDonald とノース・カロライナへ移住し、夫はイギリス軍側の将校としてアメリカ独立戦争を戦った事実を知った。その後、家族はカナダのノバスコシアに移り、晩年に はFloraと夫はスコットランドに帰還し、彼女はスカイ島で亡くなった。インヴァネスには、この偉大な功績を讃えて、銅像が建てられているとある。

II Flora MacDonaldとその周辺
 Flora MacDonald(1722-90)は、ヘブリディーズ諸島の外島にあるSouth Uistで生まれた。この諸島は地形的には海峡をはさんで向かい側に“The Skye Boat Song”の舞台であるスカイ島があり、内島とも呼ばれている。外島の自然環境は他の土地に劣らず厳しく、海からはゲールと呼ばれる冷たい強風が容赦なく吹きつける。エドウィン・ミュアの『スコットランド紀行』には、18世紀のハイランドやアイランドの悲惨な状況と慢性的飢餓について詳しく述べられている。
 Floraは幼い時父を失い母は彼女が6歳の時、片目が不自由なHugh MacDonald of Armadaleと再婚し内島のArmadaleに移った。この人物は元フランス軍にいて、有力氏族MacDonald of Sleatの土地管理人(factor)になった。Floraとこの継父との関係は最後まで良好なものであったと言われている。当時のハイランドやアイラ ンドでは、氏族制度がなお支配的でその庇護なしに生きることが難しい時代であった。
 MacDonald あるいは、Clan Donaldは有力一族として、氏族制度が衰退に向かっていた当時においても一大勢力であった。外島と内島は一族の拠点で、ジャコバイトの「蜂の巣箱」とも言われ隠れジャコバイトも多くいた島であった。Prince Charles Stuartの挙兵の噂は既に囁かれていたが、遂に1745年7月21日に、フランス船で外島のBarraに到着した。Prince の「大義」を前にして、この地の人々の動揺はどれ程のものだったか察するに余りある。しかしClanranaldの息子が参加を表明し軍勢が整いスチュ アート家の王旗が掲げられた。ゲール語の原詩からW.スコットが英語に翻訳した次の詩には、故郷を離れ戦場へ向かう戦士の不安が吐露されている。

Macleud’s wizard flag from the grey castle sallies,
The rowers are seated, unmoored are the galleys;
Gleam war-axe and broadsword, clang target and quiver,
As Mackrimmon plays"Farewell to Dunvegan for ever”.
Farewell to each cliff, on which breakers are foaming,
Farewell each dark glen in which red deer are roaming,
Farewell lonely Skye, to lake, mountain, and river,
Macleud may return, but Mackrimmon shall never.
(以下省略)

III Flora MacDonald とPrince Charlesの脱出 
 カロデンの戦いの後、Princeには、30,000ポンドという法外な額の懸賞金がかけられ、彼の困難な逃避行が始まった。Cullodenと題される詩の一節は、痛ましい戦場の模様が描かれている。

     Culloden
Wild waves the heath on Culloden’s bleak moor,
As it is waved on that morn long ago-
When warriors proud on its bosom it bore,
That trembled and shook with the Cameron’s loud roar,
And the shouts of each terrible foe.
(以下省略)

Prince の希望は、本土を離れヘブリディーズ諸島の外島に渡ることであった。この移動には意見が分かれ、政府軍の船が海上を取り締まっている状況で、本土に留まる よりはるかに危険だと予測する者、また、外島への移動によって、フランスへの船を捉まえる機会が増える。これがただひとつのコースであると主張する者もい た。Prince の安全は結局、国外脱出以外に無いとしたら後者の選択しかない。一行は再び夜の荒海に乗り出し外島に着いた。
 しかしベンベクラには多数の政府軍の兵士が駐屯し、捜索の手が伸びており、Princeをより安全な場所へ再び案内する必要性が生じた。新たな脱出 計画では、Floraの助けが不可欠であった。ハイランドやアイランドでは、男たちは表向き政府に協力し、その妻たちはジャコバイトに同情的であった。計 画というのは、Princeが女装してBetty Burkeと名のり、スカイ島へ脱出するというもので、Clanranaldの妻とFlora、女性たちは女装に必要な衣装を猛烈な勢いで縫い上げた。6 月20日に、Floraは初めてPrince と挨拶を交わした。
 当時外島にいて政府軍の指揮官として海上警備の任にあった Floraの継父、Hugh MacDonald はスカイ島への安全な航海を保障する通行証となるArmadaleにいる妻宛ての手紙をFloraに与えた。この手紙には、Floraと女装した Prince、彼の側近の3人の名があった。船は6月28日、夜出発し、キャンベル将軍の包囲網からのがれ出た。計画は綿密に練られ関係者の連携により実 行されたことが窺える。同年9月にPrince はフランス船で安全に脱出した。

IV Flora MacDonaldの功績 
 この脱出成功は、歴史にも類を見ないものとスコットランドの人々が語り誇りにしている。実際裏切り者がいつ出てもおかしくはない状況であった。
 エドウィン・ ミュアは、『スコットランド紀行』の中で、スコットランドが統一国家を形成できなかった原因の幾つかを指摘している。ハイランドとローランドの対立、ス チュアート家とキャンベル家の対立、ハイランドの氏族たちの対立の長い伝統である。地理的条件の障害が輪をかけたとも言われる。しかし、人々は困難な地理 的障害を乗り越え、同朋の団結によってPrince Charlesを救ったのである。
 歴史を紐解くと似たような政治的事件に出会う。鎌倉幕府を開いた源頼朝に追捕される源義経がいる。山伏に変装した弁慶の一団に守られ奥州藤原氏を 頼って落ち延びて行く源義経の姿は、歌舞伎「勧進帳」の中に昇華されて伝承されている:「これは由々しき御大事にて候。この関ひとつ踏み破って越えたりとも、行く先々の新関に、 かかる沙汰のある時は、求めて事を破るの道理、たやすく陸奥へは参り難し。それ故にこそ、袈裟、兜巾を退けられ、笈を御肩に参らせて、君を強力と仕立て 候・・・。」
 Prince Charlesが父祖の地で辱めを受け、命を落とすことにでもなれば、スコットランドの人々にとっては、末代までの恥であるという意識があり、またその逃 亡は苦難に満ちたものであったため、深い同情の念があったと言われている。キャンベル将軍はこの背後には、「智謀に富む人物」(mastermind)が いたと推測していた。いたとしたらHugh MacDonald であろうとされる。「スカイ島への逃亡」は彼が計画し実行に移したと推測される。自らジャコバイトであると表明したことはない。しかし、Flora は継父の意思をよく理解し、自分に課せられた使命を果たした。Floraが逮捕され、ロンドン塔に一時幽閉されていた時、彼女は国王ジョージⅡ世に謁見し ている。

V “The Skye Boat Song”の成立 
 この歌は古い旋律に由来する。作曲者のAnnie Campbell MacLeodが、1879年Soay島からLoch Coruiskまで渡った際、漕ぎ手が唄っているのを聞き、この船乗りの詠唱をピアノで再現した。数年経って、Harold Boultonがこの地を訪れた時、この歌を聴きジャコバイトの歌のベースにすることで両者は一致し、共同で歌の本を編集した。‘Over the sea to Skye’のキャッチフレーズもこの時に生れた。R.L.スティーブンソンはこの旋律は、古い時代の民謡であると考え、歌詞を付けている。

Sing me a song of a lad that is gone,
Say, could that lad be I?
Merry of soul he sailed on a day
Over the sea to Skye.

彼も同じキャッチフレーズを用いている。両者はこの歌をFloraを意識して作ったわけでは無かったが、結局この歌はFlora MacDonald神話に吸収されてしまった。
 民衆の中には、依然Prince の帰還を願う気持ちがあったと言われているが、その心は次のような歌に託されている。“Loch Lomond”もまたジャコバイトの悲哀を唄った歌として伝承された。

     My Bonnie*
My Bonnie lies over the ocean,
My Bonnie lies over the sea,
My Bonnie lies over the ocean,
Oh, bring back my Bonnie to me.
Bring back, bring back,
Oh, bring back my Bonnie to me.
Bring back, bring back,
Oh, bring back my bonnie to me
(以下省略)

参考文献
Douglas, Hugh.(2003) Flora Macdonald: The Most Loyal Rebel, Sparkford: Sutton publishing.
MacDonald, David.(2003) A Wee Guide to Flora MacDonald, Edinburgh.
Macgregor, Alexander &Mackenzie, Alexander.(1882) The Life of Flora MacDonald and her Adventure with Prince Charles, Legacy Reprint Series.

邦語文献
今井宏編 『イギリス史 2近世』山川出版社, 1990.
エドウイン・ミュア、橋本槇矩訳 『スコットランド紀行』岩波文庫, 2007.
犬丸 治 『市川新之助論』講談社現代新書, 2003.

その他の資料
*2008年1月27日の関西学院高等部グリークラブ創部60周年記念演奏会プログラムに掲載。

http://www.rampantscotland.com/songs/blsongs_index.htm

http://en.wikipedia.org/wiki/Flora_MacDonald

(2008/4)