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(yamanaka-139)歴史とロマンス(1)
トマス・パースィ『ワークワースの隠者⎯ノーサンバーランド・バラッド」(The Hermit of Warkworth. A Northumberland Ballad”, 1771)
バラッド研究者にとって「トマス・パースィ」の名は、何と言っても1765年に出版された Reliques of Ancient English Poetry の編者としてであることに異論はあるまい。1 18世紀におけるバラッド・コレクションの中でも最も重要なものの一つとなり、後の英詩におけるバラッド・リバイバルとロマン主義運動の引き金になったことについてはここに繰り返さない。この歴史的なバラッド・コレクションは純粋な口承バラッド、ブロードサイド・バラッド、そしてバラッド詩の三者を含めたバラッド集なのであったが、中で、ティッケル (Thomas Tickell, 1685-1740)、ハミルトン(William Hamilton, 1704-54)、マレット (David Mallet, ?1705-65) その他12名の詩人のバラッド詩が含まれていることは、詩人が伝承バラッドの影響の元に創作したバラッド詩という存在をパースィが見過ごさなかった点で、後世のバラッド詩研究にとって心強い業績であったことを強調したい。『英国バラッド詩アーカイブ』にはパースィの作品として3点を紹介しているが、“The Child of Elle” (1765) は、’Folio Manuscript’ で39行であったものをパースィが200行にのばしたものであり、2 “The Friar of Orders Gray” (1765) の第3、5スタンザはシェイクスピアのHamlet 4幕5場でうたわれるオフィーリア (Ophelia) の歌から採られている。歴史とロマンスを巧みに織り混ぜた“The Hermit of Warkworth, A Northumberland Ballad” (1771) のみが、自ら巻き起こしたバラッド・リバイバルに乗って創作したパースィ自身の純粋なバラッド詩である。この全1068行の長編詩をここで一時に紹介するには紙数を使い過ぎるし、『アーカイブ』に掲載する完成原稿は未完であるので、ここでは第1部216行、第2部292行、第3部344行の三回に分けて、引用箇所は「山中試訳」として紹介したい。(原文については『英国バラッド詩アーカイブ』’Thomas Percy’ の項参照)
第1部
ノーサンバーランド伯爵夫人エリザベス・セイモア・パースィ(Elizabeth Seymour Percy, 1716-76)3 に献呈されたReliques は冒頭、闇夜の嵐の中、「か弱き人間の不幸に思いを巡らせながら」(“Musing on man’s weak hapless state” 5) 、スコットランドと国境を接するイングランドの最北部ノーサンバーランドのワークワース(Warkworth)に一人の隠者が身を横たえている。するとその時、ひどく怯え悲しむ女の声がして、外に出てみると、近くの一本の樹の元に、美しい娘が独り、打ちひしがれて泣いている。事情を訊くと、先ほどまで一緒だった連れを見失ったこと、足を滑らせて向こうの濁流に飲まれたのではないかと、怯えているという。隠者は辺りを探して若者を見つけ、自分の庵に連れて帰る。再会できて喜ぶ二人に、隠者は暖かい暖炉の火と素朴な食べ物でもてなす。「ここから近い町は何という名の? この辺りはどなたの土地?/何という貴族の土地ですか?」(“What town is here? What lands are these? / And to what lord belong?”) (83-84)と尋ねる若者に,隠者は土地の主の歴史を語り始める。
この侘しき東屋に雪積もらせて
十度の冬が巡ってきました
勇猛果敢なホットスパーが
(この北国では我らが若き主をそう呼んでいたのですが)
ヘンリー・ボリングブルックに
北の軍勢を率いて敢然と戦い
命を落とされたのは
威風堂々たるサロピア城の近くでのことでした
Ten winters now have shed their snows
On this my lowly hall,
Since valiant HOTSPUR (so the North
Our youthful lord did call)
Against Fourth HENRY BOLINGBROKE
Led up his northern powers,
And stoutly fighting lost his life
Near proud Salopia’s towers. (89-96)
かつての若き主ホットスパー (Hotspur, nickname of Sir Henry Percy, 1364-1403, eldest son of the first Earl of Northumberland) が ボリングブルック(Bolingbroke, Henry of Lancaster, 1367-1413; 後のイングランド王ヘンリー4世)と戦って破れ、パースィ家の一人息子(初代ノーサンバーランド伯の孫息子)はボリングブルックの手の届かないスコットランドに身を隠したこと、以後故国は国境地方のスコットランド人に荒されて荒廃したままである,と。隠者は嘆く:
今や「パーシー」の名は
長きにわたってわが北国の誇りであり自慢であったもの
ああ その名は雲に隠れ
名誉は奪われ 跡形も無し
And now the PERCY name, so long
Our northern pride and boast,
Lies hid, alas! beneath a cloud;
Their honors reft and lost. (105-08)
かつては領主や雅な奥方たちが饗応を受け、貧しき者たちも施しを受けていた「美しきワークワース城の壮大な砦 (119) も「・・・今や 侘しく佇み/見苦しくも雑草に覆われている」(121-24)と嘆き止まない隠者は、次のように付け加える。
「この間 遥か彼方のスコットランドの丘陵に隠れて
世継ぎのパーシー様は人知れず生きておられるのだ
見知らぬ者の領地に頼って
己の領土を求める気配も無きか
この老いた眼で一目でも
お戻りになったお姿を拝見できるならば
わが魂は 至福に包まれて旅立とう」
隠者はそう言って 一滴の涙を流した
Meantime far off, mid Scottish hills
The PERCY lives unknown:
On stranger’s bounty he depends,
And may not claim his own.
O might I with these aged eyes
But live to see him here,
Then should my soul depart in bliss! —
He said, and dropt a tear. (125-32)
話を聞いていた若者は,自分こそがその世継の息子であることを告げて、事情を話す。スコットランドでクランの長の元、気高き身分にふさわしく、戦いの技やあらゆる学問を身につけて、先々の大将に相応しく育てられた。成長した彼は,故郷を一目見たくて,狩人の衣装をまとって旅に出る。やがて,イングランド北西部国境警備の任を歴代務めてきたネビル家(Ralph Neville, 1364-1425, first Earl of Westmoreland)にたどり着き,そこで狩人として雇われる。しばし逗留する内にその家の美しい娘、エレノアを見初める。若者は身の上を打ち明け,二人はやがて相思相愛の中となるが,娘の母親がパースィ家の仇敵であるボリングブルックの妹である以上結婚は許されないと思って,駆け落ちしてきたというのであった。
「さあ お二人とも」と隠者は言った
「しばし ご心配はお忘れくだされ
姫君よ わがみすぼらしきベッドに目を瞑ってお休みなされ
私ども男二人は 床を寝床に休みましょう」
Now rest ye both, the Hermit said;
Awhile your cares foregoe:
Nor, lady, scorn my humble bed;
— WE’ll pass the night below. (213-16)
ここまでで第一部が終わる。
注1:元々聖職者であった彼が、友人ハンフリー・ピット (Humphrey Pitt) の屋敷で女中が火種に使っていた紙屑が古いバラッドの写本であったことを発見したことが、パースィがバラッド蒐集に乗り出すきっかけになったという逸話は有名である。これが所謂 ’Percy’s Folio Manuscript’ と言われる17世紀半ばに書かれた手書きの写本で、内45篇にパースィ自身が加筆修正を加え、Ambrose Philips編纂の A Collection of Old Ballads (1723) その他過去の編纂集から集めた176篇(第2版で4篇が加えられて180篇)をまとめた Reliques となったのである。この’Percy’s Folio’ は後に、F. J. Furnivall と J. W. Hales 編纂のFolio Manuscript: Ballads and Romances, 3 vols (1867-68) として完全な形での翻刻版が出版された。
注2:拙論「バラッド詩の系譜 (3) : 編者の功罪 : The Child of Elle」『文芸と思想』 (福岡女子大学)60 (1996) 参照。
注3:彼女の父アルジャーノン・シーモア (Algernon Seymour, 1684-1750) が1750年に没した時、’Percy’ の男爵領を拝し、夫 (Hugh Smithson) もノーサンバーランド伯爵の称号を得て, 苗字を‘Percy’に変更、それぞれノーサンバーランド伯爵・伯爵夫人と名乗ったのである。代々ノーサンバーランド伯爵を世襲した北イングランドで最も古い貴族の家系を誇るパースィ家は1067年にイングランドに渡ってきたノルマン人William de Percy (d. 1096)に遡るが、本作品は、91行目に「勇猛果敢なホットスパー」(’valiant HOTSPUR’)という言及がある通り、Lord Henry Percy (1366-1403) の時代の話である。https://share.google/YWxuEArhXKxJ6nHiY 参照。
パースィ家のFamily Historyについてはサイト (https://percyfamilyhistory.com/?page_id=333)、“WHAT HAPPENED TO THE PERCIES?” (https://en.wikipedia.org/wiki/Percy_family) 参照。
詩人トマス・パースィは、この由緒ある家系に列することを空想(期待?)していたと邪推する向きもあるが、現実には卸売業兼農業を営んでいたArthur Lowe Percy (d. 1764) の息子として生まれ、1746年にオックスフォード大学に入学し、その後、ノーサンバーランド伯爵家付き司祭を初めとして聖職者の道に進んだ。