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ウェールズ詩とは何かーその伝統と現状
第6回(2014)会合「特別講演」要旨(2014年3月22日 大阪大学) 吉賀憲夫
ウェールズ語詩の始まり
ウェールズ詩には、ウェールズ語で書かれたものと英語で書かれたものの二種類がある。圧倒的に長い伝統をもつのが6世紀の中葉に始まるウェールズ語詩である。
6世紀といえば、アングロサクソン人との戦いでブリトン人が存亡の危機にあったときであった。その頃に活躍した詩人にタリエシン(Taliesin)やアネイリン(Aneirin)がいる。タリエシンは君主の宮廷のペンケルズ、すなわち宮廷に所属する「最高位の詩人」として、王を称える詩や、その死を悼む挽歌を作った。アネイリンは,ゴドジン国の精鋭300騎が北イングランドでアングル人と戦い、1騎を残して全滅するという出来事を叙した挽歌「ゴドジン」(Y Gododdin)を西暦600年頃作ったという。これらの詩に使用された言語は当時のブリテン島の言葉であったブリトン語で、それがウェールズ語となった。
当時のウェールズの詩人は、戦いにおける王の勇猛さを称え、平時においては旅人や来訪者を歓待するなどの王の寛大さを称える詩を作るのが仕事であった。また詩人は、詩という凝縮された言語媒体で部族に伝わる伝説や教訓を語り、部族社会における武勇,忠誠、奉公等の重要性を聞き手に伝える役目をもつていた。王を誉め称える詩の伝統は世界中に古くからあるが、ウェールズに特徴的なことは、それが大変長く続き、また高度に発達した社会の中に生き残ったことである。
征服されたウェールズの詩人
13世紀末、エドワード一世がウェールズを征服し、内乱や戦争が終わると、詩歌の主題は戦闘にまつわる叙事的な事柄から自然や女性や恋愛といった叙情的なものに移っていった。「カモメ」「ツグミ」「風」「スランバターンの娘たち」という作品を書いた中世ウェールズを代表する詩人ダヴィズ・アプ・グウィリム(Dafydd ap Gwilym, c.1320- c.70)は、小鳥や風に愛を託し、旅先から愛する女性に伝えるというテーマの詩を書いた。
征服されたウェールズでは、王家に仕えていた上級詩人は職を失い、ウェールズに散在する修道院や有力者の家を巡回し始めた。彼らは巡回で詩を吟唱し、ハープを演奏することで生計を立てた。一方、下級の放浪詩人は野外に民衆を集め、「約束の子」と呼ばれる救世主がウェールズに現れ、アングロサクソン人をブリテン島から駆逐する、という民衆のお気に入りの詩を披露した。しかし、当局はこれを詩人による民衆の煽動ととり、浮浪者取締法で詩人を取り締まった。やがて詩人は放浪を止め、定住し、定職をもつようになった。その結果、職人技を必要とする詩作は衰退した。
伝統的なウェールズ語詩は厳格な韻律法を守って書かれるが、16世紀以降、無韻詩も作られるようになった。18世紀にはゴロンウィ・オーエン(Goronwy Owen, 1723 – 69)が無韻詩でウェールズ語詩に新風を吹き込み、ウィリアム・ウィリアムズ(William Williams, 1717 – 91)は今もなお愛唱される無韻の賛美歌を数多く作った。
ウェールズの英語詩人
もう一つのウェールズ詩は、ウェールズ人やウェールズ文化を背景にもつ詩人たちが書いた英語詩である。英語詩を書いた詩人には、形而上派詩人のジョージ・ハーバート(George Herbert, 1593-1633)やヘンリー・ヴォーン (Henry Vaughan, 1621 – 95)、眺望詩を書いたジョン・ダイアー(John Dyer, 1699 -1757)、第一次大戦で戦死したロンドン生まれのエドワード・トマス(Edward Thomas, 1878-1917)、そして20世紀のウェールズ詩を代表するディラン・トマス(Dylan Thomas, 1914- 53)やR. S.トマス(R. S. Thomas, 1913-2000)がいる。
20世紀前半のウェールズ英語詩人といえば、ウェールズ語が喋れず、そのためウェールズへの関心は薄かった。彼らの作る詩は芸術的には秀でていたが、ウェールズ的なものはあまりなく、イングランドの詩人の書くものとさして変わらなかった。
一方で、詩人とは社会から隔絶した孤高の存在ではなく、自らが所属する共同体の代弁者であるという立場で詩を書いたのが南ウェールズの炭鉱などで働いていたアイドリス・デーヴィス(Idris Davies, 1905-53)であった。ウェールズ語が母語であった彼は英語を学び、労働者の現状をより多くの人々に知ってもらうために英語で詩を書いた。彼の「リムニーの鐘」という詩は1950年代にアメリカのフォークシンガーのピート・シーガーの目に留まり、フォークソングとして歌われた。
20世紀後半になると、ウェールズの英語詩人たちは、ウェールズ語詩人たちには一貫したテーマであったウェールズの現状とその諸問題に、やっと目を向け始めた。かつてなかったことだが、彼らはウェールズ語詩人との交流も始め、ウェールズ詩人の本来のあり方、すなわち共同体の代弁者へと回帰していった。特にR. S.トマスはナショナル・アイデンティティとしてのウェールの歴史と文化とウェールズ語に強い関心を抱いた。 この背景には、ウェールズの人口の5分の4が英語を母語としているという現実があり、ウェールズの英語詩人もウェールズとウェールズ人に対し責任をもたなければならないと考えたのであった。20世紀前半の詩人のようにウェールズに対して無関心であることは、人口の80%を占める英語を母語とするウェールズ人を裏切ることになる、という意識が英語詩人に芽生えたのであった。
現在に続くウェールズ詩の伝統
1960年代からウェールズ語詩が積極的に紹介されるようになった。詩人でウェールズ語詩の翻訳家でもあるトニー・コンラン(Tony Conran, 1932-2000)は『ペンギン版ウェールズ詩』 (1967)を編んだが、そこには彼による過去から現在までの主要なウェールズ語詩の英訳が収められている。この他にも、英文学者で小説家のグウィン・ジョーンズの編になる『オックスフォード版英語で読むウェールズ詩』(1977)が出版されたが、これらの詩集は英語話者にウェールズ語詩を知る貴重な機会を与えた。
共同体の代弁者としての詩人の一例をトニー・コンランに見ることが出来る。彼はウェールズ最古の挽歌「ゴドジン」を彷彿とさせる「1982年にフォークランド諸島で戦死したウェールズ人への挽歌」を書いたが、ここにはウェールズ詩人としての彼の立ち位置が明確に現れている。と言うのは、彼はこの挽歌を255人のイギリス軍戦死者全員にではなく、43人のウェールズ人戦死者に捧げているからである。彼は伝統に従い、共同体の構成員の死に対して挽歌を作るという6世紀に始まるウェールズ詩人元来の役割を果たしたのだ。しかし彼のとるこの立場は、決してこの挽歌を偏狭で矮小なものにしていない。むしろ読者は一人一人の顔が見える共同体の戦死者に対し悲しみの感情を一層強くし、彼らを巻き込み、死に至らしめた戦争に対し強い憤りを感じるのである。
今後ウェールズの英語詩人の役割はますます大きく、また重要になるであろうが、今後ウェールズ詩がどのような展開を見せてくれるのか、大変興味深いところである。