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「バラッド詩とは?」第二部「リレー・トーク」2

鎌田明子: 主体性を表現するバラッド―John Keats, ‘Ah! ken ye what I met the day’ (1818) _(2023/3)

 Francis James Childは、伝承バラッドの根本的な特徴について ‘The fundamental characteristic of popular ballads is … the absence of subjectivity and self-consciousness.’と述べている。バラッド作品がこのような性質、主体性と自意識を欠き、主体性と自意識をもった場合どのような効果が得られるか、John Keats(1795-1821)の’Ah! ken ye what I met the day’ (1818)を例に考える。

 結婚を祝う一団に会った語り手が突然泣き出すという作品の展開は、伝承バラッドの ‘Fair Margaret and Sweet William’ を想起させる。この伝承バラッドでは花嫁と連れ立つ恋人を目撃し、正気を失う女性が描かれるが、キーツ作品にはこの影響がみられ、作品は恋人の不義に嘆く女性の悲しみを表すと解釈できる。
 この作品は1818年7月10日にスコットランド旅行中に書かれる。同年5月に結婚した彼の弟ジョージはアメリカに移住したが、この弟をリヴァプールまで見送ることが、旅の理由の一つだった。 彼は旅行中に目にした結婚式の一団に作品の材を得たと述べている。偶然出会った結婚式の一団に、1月前に結婚した弟を思い出し作品を制作したのだろう。 弟が結婚を決めた際のキーツの心情は書簡によく表れている。
…the result has been his resolution to emigrate to the back settlements of America, become farmer and work with his own hands…. This for many reasons has met with my entire consent… he is of too independent and liberal a Mind to get on in trade in this Country…. I would not consent to his going alone – no….

ここに弟の成功と幸せを願う兄の姿が見える。弟の移住はともかく、一人で行くことには反対という記述には、弟に孤独でない人生を送ってほしいという兄の深い愛情が伺える。しかしわずか4日後に書かれた手紙の続きにこの頃のキーツの不安定な心情が見える。 ‘I feel no spur at my Brothers going to America and am almost stony-hearted about his wedding.’と述べられ、全霊で弟の結婚を祝福できない葛藤が表れている。
 この喜びと寂しさの混交は肉親として当然だが、‘stony-hearted’と形容されるほどの感情の歪みには過去の体験が影響している。次のような記述がある。
 When I among Women I have evil thoughts, malice spleen … You must be charitable and put all this perversity to my being disappointed since Boyhood … I never rejoiced more than at my Brother’s Marriage and shall do so at that of any of my friends – . I must absolutely get over this < no right feeling towards Women >-

キーツは近親者の結婚を喜ぶために女性への不信感を乗り越えなければならないと考えていた。そしてこの女性への偏見の原因として少年時の落胆に言及する。これは夫の死後2か月で再婚した彼の母のことを指している。母の再婚で味わった失望は、生活困窮から5年ぶりに子供たちの元に戻った彼女がその1月後に他界するとトラウマとなってキーツの心に残った。書簡で述べられる「落胆」の根底にはこのトラウマがあり、結婚と深く結びついている。

 1818年7月の彼の状況を背景に作品を読むと、語りはキーツ自身、何も語らない花婿は弟ジョージ、あるいは何も言わずに再婚した彼の母を表すと解釈できる。 家に帰る友人たちに残されて立ち尽くす語り手には近親者の結婚後十分に慰めを得られなかったキーツの心情が表される。語り手が立つ橋や激流は、自分が住む世界と弟や母が住む世界との境界や分断を表し、嵐に包まれる一団は、再婚後の母や弟の今後の苦難を示すと解釈できる。花婿の行く末を思い寂しさに流す語り手の涙の底には、母の再婚後体験した悲しみ、喪失感、女性への不信感がある。
 「恋人の裏切り」という伝承バラッドになじみのテーマを扱うこの作品は、詩人の伝記を踏まえると個人的な悲しみが背景にある。主体的な感情を作品に織り込み、伝承の中に落とし込むことで、キーツ個人の感情は普遍化、客観化される。語り手の悲しみは、伝承バラッドの別離の悲しみ、昔から多く存在するありふれた悲しみの一つとして客観化、矮小化される。
 マーガレットの悲しみは裏切られた女性の悲しみだが、恋人たちが敵対する家の者であることを考えると、それは運命とも呼ぶべき、圧倒的力によって恋人から引き裂かれる悲しみである。その意味でキーツの語りの悲しみは彼の母の悲しみをも内包する。彼女には夫の死後すぐに再婚せざるを得ない時代背景があった。女性の権利が確立されていない時代、貸馬車屋を営んでいた夫の死後、従業員たちを守るためには新たな経営主を夫とするほかなかった。その行為は彼女の子供を傷つけたが、彼女もやはり時代の被害者であり、伝承バラッドのマーガレットと同種といえる。
 バラッドと伝記的作品の二面性を持つキーツ作品の語りの涙はキーツ自身と、彼の母を含む時代の中で虐げられてきた弱者の悲しみの両者を表す。この自己と他者の悲しみの融合はキーツには大きな意味があった。彼は1819年作の『ハイペリオンの没落』で「世の悲しみを自分の悲しみとし、それを休ませることなく感じるものだけが詩人という高みに上ることができる」と述べている。彼にとって個人の悲しみを大きな流れの中の一滴として客観化させるバラッドの中に自分の感情を落とし込むことは、バラッドに流れる他者の悲しみを自己の悲しみを通して味わい、自分のものとしていく体験となり大きな糧となった。