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「バラッド詩とは?」第二部「リレー・トーク」−1

(日本バラッド協会第14回(2023)会合講演「バラッド詩とは?」第二部「リレー・トーク」(異なった時代のバラッド詩を取り上げて、その多様な側面を紹介する企画)

トーク 1 山中 光義: 言葉の抽象化―Thomas Tickell, “Lucy and Colin” (1725) 

 18世紀の前半に伝承バラッド “Fair Margaret and Sweet William” (Child 74) を元歌にした二つのバラッド詩が生まれた。方やDavid Mallet (?1705-65)の”Margaret’s Ghost” (1723)で、これに対抗してThomas Tickell (1685-1740) が2年後に”Lucy and Colin” を書いたが、この作品はフォークロアの失われてゆく姿、言葉の抽象化などの点で模倣からの典型的な逸脱を示している。
 伝承の歌では、ウィリアムが恋人マーガレットとの結婚の許しを得ようと、彼女の屋敷にやってくる。父親から冷たくあしらわれたウィリアムは、別の女と結婚すると言って去ってゆく。彼が新しい恋人と教会に向かう姿を見たマーガレットは、屋敷を出て、二度と戻って来ない。結婚式の一日が過ぎて、夜が来て、皆が寝静まった時、マーガレットの亡霊がウィリアムの足元に立つ。そこからは二人の会話になる。
 「ウィリアム ベッドの心地ここちはいかがです
   シーツの心地ここちはいかがです
 腕に抱かれてぐっすりおやすみになっている
   栗色の奥様はいかがです」

 「マーガレット ベッドの心地ここちはけっこうです
   シーツの心地ここちもけっこうです
 でも ベッドの足元に立っておいでの
   色白のお方のほうがもっとよい」   (sts. 8-9)

女が死んだ亡霊であるとは微塵も感じられない。これを伝承バラッドなどに固有の「肉体を持った亡霊」 (‘corporeal revenant’)と言い、多くのバラッドで登場してくる。他方ティッケルの方では、
 さあ みんな 死体を運んで 運んでちょうだい
   あの幸せな花婿さんに逢いにゆくの
 あの人は 鮮やかな婚礼衣装を身にまとい
   あたしは 経帷子きょうかたびらに身をつつみ」
 ルーシーは語り終え 息をひきとり 死体が運ばれた
  幸せな花婿に逢いにゆくため
 コリンは 鮮やかな婚礼衣装を身にまとい
   ルーシーは 経帷子に身をつつみ  (sts. 11-12)

こちらでは、女は経帷子に包まれた死体として運ばれてゆく。捨てた女を伝承の男が再び愛すようになるのとは違って、男は激しい苦悩に苛まれる。
 困惑 恥辱ちじょく(ちじょく) 後悔 絶望が
 (Confusion, shame, remorse, despair,)
   いちどきに コリンの胸を張り裂いて
 死の玉汗たまあせ(たまあせ)を ひたい(ひたい)ににじませ
   コリンはよろめき うめき 倒れた  (st. 14)

‘Confusion, shame, remorse, despair’といったこれらの抽象的な言葉はいずれもコリンの「苦悩」を表現しようとするものであるのに対して、伝承では「くちづけ」という「行為」だけがうたわれ、ウィリアムの後追いを「悲しみのために息絶えました」という素朴な表現で済ませている。   
 「経帷子をほどいてください  
   亡くなった人にくちづけしたい  
 青白く血の気の失せた唇に  
   いつもあんなに赤かったのに」  
 ·····  
 マーガレットは 清らかな愛のために     
   ウィリアムは 悲しみのために息絶えました  (sts. 16-17)

実はこの問題は大変微妙で、「困惑」とか 「恥辱」とか「後悔」とか「絶望」といった抽象的な表現にわれわれは最早すっかり慣らされていて、何の疑いも無くその気持ちを当然「わかる」と思うようになっているところがあるかも知れない。直喩や暗喩などの古典的な比喩表現を使って物事を分かりやすく理解しようとすることと違って、具体的なイメージを結ばない観念的な抽象語は難解で、それ故に高級であるとする価値観の誕生と結びついてゆく。不特定多数の民衆の共有財産であった伝承バラッドは、当然のこととして誰にでも分かる言葉で語られていた。それに対して、プロフェショナルな詩人の言葉には段々と一般の人にはわかりにくい抽象表現が増えてゆき、「詩」というものは「難しくてわからない」と思われるようになってきたのである。ワーズワースが、人々が実際に日常的に使う言葉で詩を書くべきであると主張したのは、こういう事情からであったが、皮肉にもロマン派の詩人たちの名作バラッド詩にはこぞってそのような抽象表現が登場している。二、三の例を挙げてみると、
S. T. Coleridge, “Ancient Mariner” (1798)
 Alone, alone, all, all alone,         
 Alone on a wide wide sea!          
 And never a saint took pity on        
 My soul in agony. (232-35) 

P. B. Shelley, “Sister Rosa” (1811)
  And the ice of despair            
  Chilled the wild throb of care,         
 And he sate in mute agony still; (32-34) 

John Keats, “La Belle Dame sans Merci” (1820)
 I see a lilly on thy brow,        
  With anguish moist and fever dew;  
 And on thy cheek a fading rose     
  Fast withereth too. (9-12)

コールリッジは、海上を独り彷徨う水夫の苦悩を ‘My soul in agony’ (苦しむわが魂)と表現し、シェリーの主人公は ‘the ice of despair’ (凍てつく絶望)の痛みで ‘in mute agony’(無言の苦悶)に身を苛まれ、キーツの鎧の騎士は満たされぬ愛に苦悶の玉汗(’anguish moist’)を額に滲ませて独り永遠とわに彷徨う、等々といった表現の数々である。

 最後に、伝承では
  マーガレットの墓のうえには バラが生え
    ウィリアムの墓のうえには イバラが生えて
  バラとイバラは大きくのびて恋結びをいました
    こうして二人は 死んで結ばれたのでした   (st. 18)

と、死んだマーガレットとウィリアムがバラとイバラに変身して、自らの行為で「恋結び」 を結って、かくして「二人は死んで結ばれた」と、永遠の愛の成就がうたわれる。それに対してティッケルでは、
  それから先は — ルーシーの新しい墓に
    わなわな震える若者らに運ばれて
  おなじ草葉の蔭で おなじ土をかぶって
    いつの世までも コリンはルーシーと一緒に眠っている

  よくこの墓に まじめな村の若者と
    契りを結んだ村の娘の姿が見える
  色鮮やかな花輪と 誓いの恋結びで
    彼らは 草繁る恋塚こいづかを飾ってゆく   (sts. 16-17)  

ここでは、「恋結び」を結うのは当事者の恋人同士ではなくて、訪れた村の若者たち、彼らが自分たちの誓いの恋結びでコリンとルーシーの墓を飾ってゆくのである。コリンとルーシーは「おなじ土をかぶって」と言っても、背を向け合って眠っているのかも知れない。バラッドをうたってきた民衆がこのような物語歌を創るとき、そこには「生」と「死」を峻別しない、一連の「生」のドラマとして捉えてゆく豊かな想像力が働いていた。 最後に二人が植物になって結ばれたという「変身 (Metamorphosis)も、民衆の優れた想像力が生み出した典型的なフォークロアの一例である。「生」と「死」は一つの連続した世界であると想像しえた伝承バラッドの力を、バラッド詩は生み出しえなかったということになるのだろうか。