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連載エッセイ “We shall overcome” (4)
映画『ブルックリン』とW.B.Yeats の『赤毛のハンラハンの物語』 島崎寛子 2020-09-18
新型コロナの緊急事態宣言が解除された6月に学生たちと映画鑑賞の機会がありました。『ブルックリン』という映画を観てHome(故郷)とは何かを考えることが当初の目的でしたが、この映画を通じて、学生も私もW.B.Yeatsの作品に出会い、アイリッシュソングの不思議な力に魅了される時間を過ごすことができました。
この映画は、1950年代にアイルランドから移民してきたEilis Lacey (エイリシュ・レイシー)という若い女性の物語。その頃、ユダヤ系、ロシア系、アイルランド系、イタリア系などが住む移民の町であるニューヨークのブルックリンに彼女は住み始めました。彼女は閉鎖的なアイルランドの田舎町を嫌い、一人で自由なアメリカへ出てきました。新しい生活に馴染めない時期に、アイルランド系カトリックの教会のクリスマス会で、アイルランドの歌を聞いた時、彼女の目から涙が止まらなくなりました。その歌はW.B.Yeats の作品“Tales of Red Hanrahan”(『赤毛のハンラハンの物語』)の中の ‘The Twisting of the Rope’(「縄ない」)という、男性が縄をなっているうちに女性から遠ざかって行くという話です。
映画の中で、クリスマス会へ招かれたお礼という設定でこのアイリッシュソングが歌われます。アイルランドからアメリカへ渡たり、労働者として橋や道路などのアメリカの土台を築いたが、今ではホームレスになり居場所がなくなった境遇の男性たちの代表が歌い始めると、主人公Eilis Lacey の目から涙が止まりません。居場所がなくなった同郷の人々を目の前にし、だんだん遠ざかっていく「縄ない」を思い浮かべたからでしょうか。故郷を離れた自分の境遇をこの歌に重ね合わせたからだったからでしょうか。
この場面で学生たちは強い共感を抱いたようです。アイルランド語は知らないが、独特の言葉と甘い美しい歌声に魅せられ、「初めて聞いたが感動した。」と言いました。学生たちは外国へ移住したのではないが、「自分も故郷の親元を離れ、新しい場所で生活を営んでいる。頼れる人は少なく、しかも新型コロナの影響で故郷に自由には帰れない。」と学生が語りました。この発言で、歌は時や視点が変われば、解釈が変わることに改めて気づかされました。一人でいることが多くなった学生たちも自分と向き合うことが多くなり、自分の居場所を真剣に考えざるを得ない状況にあり、共感を覚えたのではないでしょうか。『赤毛のハンラハンの物語』の中の「縄ない」の話と歌は学生たちを引き込み、見えないものを見えるようにしてくれたのではないでしょうか。歌は世につれ、不思議な力があると改めて感じる時間でした。
その後、再びコロナの状況が悪化し、学生と会うことはありませんでしたが、共に過ごした時間はコロナで分断された不安や悲しみの中での忘れがたい思い出となりました。 誰かが何かを受けとめてくれて、誰かと繋がっていることの大切さを教えてくれたのがコロナだったのではないでしょうか。
「縄ない」
俺と一緒にいてくれるなら、家族の前で一緒にいてくれ
俺と一緒にいてくれるなら、昼も夜も一緒にいてくれ
俺と一緒にいてくれるなら、心も一緒にいておくれ
日曜が来ても嫁さんになってくれなきゃ悲しすぎるよ
持参金さえ持ってれば、たとえ猫でもキスしてもらえる
でも文なしじゃお払い箱だ、実家を離れて遠くで出稼ぎ
ごうつくばりでへそが曲がった、鬼婆の娘が昨日嫁入り
俺のあの娘は箱入りで、キスされずにじっとしている
この土地へ流れてきたのが、俺にとっては大災難だ
自分の村にいたならば、言い寄る娘たちはたくさんいたのに
ケンカに口論、根もない噂にこづかれて、今じゃ宿なし
ああなんと、母には話が通じない、娘には自分の分別がない
俺ならちゃんと畑を掘って、深く種を仕込んでやる
丈高い草が生えたところへ、乳牛を連れて行ってやる
馬だって蹄鉄履かせて、駿馬にするよと言っているのに
女ってのはよりにもよって、能なし男と駆け落ちしたがる
(W・B・ イェイツ『赤毛のハンラハンと葦間の風』栩木伸明編訳、平凡社、2005年)