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連載エッセイ “We shall overcome” (20)
「安珍清姫の唄」への遍路 鵜野祐介 2021-03-31
1987年の夏、大学院博士後期課程に入ったばかりのぼくは、当時京都女子大学にいらした故稲田浩二先生の引率の下、数名の先生方や20数名の京女の学生たちと一緒に、鳥取県八頭郡佐治村(現在の鳥取市佐治)へ口承文芸総合調査に出かけた。現地において大正11年(1922年)生まれの下田いわさんから聞いたのは次のような唄だった。
もォうしもォうしと呼ぶ声に/出てみりゃ女がただひとり/もォうしお舟の船頭さん//この川渡してちょうだいな/この川渡すはいとわねど/先ほど行かれた坊さんが//後から女が来たとても/渡してくれるなと頼まれた/なんぼこの川渡さんと//あなたに迷惑かけりゃせぬ/わたしゃ清姫蛇で渡る/着ていた着物を脱ぎ捨てて//ザンブと飛び込む川の中/あれあれ見やんせ蛇の姿/もう早向うの岸へ着き//着いたお寺は長妙寺/どの寺行っても釣鐘は/釣ってあるのにこの寺は//おろしてあるとはこりゃ不思議/ひと巻き巻いてはぎゅっと締め/ふた巻き巻いてはぎゅっと締め/三巻半まで巻いたれば/中の坊さん黒仏/もはや坊さん黒仏
歌詞のなかでは「長妙寺となっているが、「道成寺」が歌い継がれる間に変化したものと考えられ、紀州和歌山の道成寺にまつわる「安珍清姫伝説」を下敷きとする口承唄と認められる。「道成寺縁起」とも呼ばれるこの伝説は、平安時代の『法華験記』や『今昔物語集』にその原型が求められる仏教説話であり、青年僧安珍を見初めて大蛇に変身する清姫の悲恋と情念を主題として、能、歌舞伎、浄瑠璃などさまざまな題材にされてきた。
いわさんは、長年和紙作りに従事しておられた方で、この唄は、娘の頃、年長の女性から紙漉きをしながら習い覚えたとのことだった。紙漉きの作業は、簀の子をはった大きな木枠を水槽の中で前後に揺すりながら、水に溶かした紙料を簀の子の上に薄く敷きのばすというもので、単調な動作を延々と繰り返さなければならない根気のいる作業である。その中で歌われたのが紙漉き唄だった。
この日、いわさんが歌ってくださったもう一つの唄は「生徒殺しの唄」という、こちらも長い歌詞を持つ物語唄だが、「安珍清姫」と同じメロディで歌われた。最初の部分のみ紹介する。明治時代に静岡県島田市で起こった男性教員による女子生徒への無理心中事件が題材とされる。
じゅうこう二つの麗美人/人と生まれし学問を/生徒に教える教員が//
恋に心を奪われて/生徒殺しの事件をば/聞くも涙の種となる//
いわさんはこの2つの唄を、歌詞カードもメモも見ることなく、最後まで通して歌ってくださった。歌うのは約50年ぶりだという。その間封印されていた記憶がこんなにも鮮やかに再現されるものなのかと驚嘆したことを覚えている。女性ばかり小さな工場の中で何時間も単調な仕事にいそしむための工夫が、こうした「愛憎の物語唄」を口ずさむことだったのではないだろうか。テレビもなく映画や雑誌といったメディアもほとんど普及していなかった山間部の寒村に暮らす娘たちにとって、こうした物語唄は、大人の世界の妖しさや〈闇〉をのぞき見ることができる貴重な娯楽のひとつだったのかもしれない。
改めて思えば、フィールドワーカーとしての自分自身のキャリアの出発点にこの「安珍清姫の唄」があった。以来30年以上にわたって「人はなぜうたを歌い、ものがたりを語るのだろう」と自問自答する道行きを続けてきたといえる。
いつか機会を見つけてこの唄のことを本格的に調べてみたいと思っていたが、昨年(2020年)8月、東日本大震災をきっかけとして知り合った「みやぎ民話の会」顧問の小野和子さんから4枚組DVD『福島県奥会津 五十嵐七重の語りを聞く』(非売品)を頂戴し、総計11時間9分に及ぶ、五十嵐さんが小野さんの問いかけに応える形で民話や暮らしぶりを語るドキュメンタリー映像を拝聴する中で、七重さんの姑にあたるキヨエさんの「安珍清姫の唄」に遭遇した。その冒頭と結末部分の歌詞とメロディの楽譜を紹介する。
国は奥州白河在の たずねござなき根田村の
父は代々山伏なるが 実は名高き桃かず殿
・・・
中に安珍籠りしを 七重に巻き締め炎吹き
中であわれな安珍様よ 中にあわれな安珍よ
キヨエさんはこの唄を10歳の頃、群馬県と栃木県の県境近くにある片品村へ出稼ぎに行っていた時に、同年齢の娘たちと一緒にこの唄を歌い覚えたのだという。それから70年余りが経った87歳ぐらいになって、民話の語り部として活動する嫁の七重さんの傍らで、ぼそぼそっと歌ったのだという。この唄に魅了された七重さんはその後10年余りにわたってキヨエさんの歌声を繰り返しこっそりと録音させてもらったそうだ。さらに、ところどころ歌詞の抜け落ちている部分については、福島県白河市にある「奥州白河安珍念仏踊り保存会」の会長さんに問い合わせて補足した。その結果、61くだり(=61連)に及ぶ長大な歌詞を再現させることができた。DVDでは、七重さんは浄書された歌詞のコピーを見ながら、「ばあちゃん(=キヨエさん)が歌う感じを真似るようにして」、5分10秒かけて全編を歌い通された。この七重さん(元はキヨエさん)の版と、いわさんの版を比較してみると、かなり異なっていることが分かる。
和歌山県の寺院を舞台とする物語だが、安珍は福島県白河市萱根根田を生誕地とするという伝説があり、これに基づいて前述の「奥州白河安珍念仏踊り保存会」ができて、安珍の命日とされる3月27日、毎年「舞踊念仏奉納」が根田に建立された「安珍堂」の前で行われている。そのことが北関東や福島地方で「安珍清姫の唄」が歌い継がれてきた背景にあると思われる。但し、インターネットの動画サイトで確認した「舞踊念仏奉納」の中で歌われている唄と、七重さんが歌った唄ではメロディも歌詞もかなり違っている。いわさんの唄とも違う。
一方、和歌山県には手まり唄「道成寺」が伝承されている。「トントンお寺の道成寺/釣鐘下ろいて身を隠し/安珍清姫蛇に化けて/七重に巻かれて/一廻り一廻り」。こちらもまた別の色合いを持つ。
他にも全国各地でさまざまなバージョンの「安珍清姫の唄」が歌い継がれてきたに違いない。紙漉きの仕事唄として、念仏踊り唄として、わらべ唄として、さらに他のさまざまな場面や用途の中で、主に娘たちの口から耳へと、おそらくは1千年以上にわたって歌い継がれてきたと思われるこの「バラッド」を、お遍路さんのように訪ね巡る旅路に出る日は遠くない、そんな気がしている。