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連載エッセイ “We shall overcome” (31)

『わたしは生きていける(How I Live Now)』と「Tam Lin」 神村朋佳 2021-11-01

 とある映画を見始めてすぐに、耳になじみのあるメロディーと声が飛び込んできて心奪われ、頭の中では、あれだっけ、これだっけと音楽の検索が止まらない。しかたなく映画の再生を一時停止して、CD音源をあさり始めてしまった。
 Fairport ConventionのTam Lin! サンディ・デニーの歌唱! ああ、そうだった!もろもろ確認してすっきりしてから、心を落ち着けて、もう一度、初めから映画を見直した。その映画は『わたしは生きていける(How I Live Now)』(2013年)。

 原作は、メグ・ローソフ『わたしは生きていける』(理論社、2005年、原著は2004年)。YA(ヤングアダルト)小説らしい、読んでいて気恥ずかしくなるようなボーイ・ミーツ・ガールに、近未来ディストピアでのサバイブが絡むといえば、ああ、よくある若者向けの小説ね、と思われるかもしれない。アメリカ同時多発テロの衝撃を受けて書かれた本作品は、いつ、なぜ始まったのか、敵は誰なのかが容易に見定めにくい現代の戦争に巻き込まれる少年少女のsurviveを描く。
 主人公のデイジーは、アメリカはニューヨーク出身の15歳の女の子。なんだか訳ありらしく、親戚の家で過ごすためにイギリスに到着したが、迎えに来るはずのおば(母親の姉妹)の姿は見当たらず。そこにかわりにあらわれたのは、どう見ても自分と同年代の男の子だった。彼は自ら車を運転してデイジーを迎えに来たという。
 さて、いとこ君が運転する車にしかたなく乗せられて、デイジーはイギリスの田園へ、新たな家族の待つ家へと誘われる。
 デイジーは生まれてすぐに母親を失ったらしく、(物語の端々から)なにかしらの問題を抱えていることは明らかだ。その彼女が、イギリスのカントリーサイドで、従兄弟、従妹たちとともにひと夏を過ごすといえば、これは英米児童文学では鉄板のシチュエーションではないかと、すぐに『秘密の花園』などを思い浮かべる人も多いと思う。
 物語はまさしく、『秘密の花園』をなぞりつつ、また、そこここで、『秘密の花園』を変奏したりひっくり返したりしながら進んでいく。デイジーの物語は、大方の予想にたがわず、従兄弟、従妹たちとの暮らし、緑の中で自然とたわむれる日々を経て、ゆるやかに癒しへと向かう……
 ……のだが、しかし、実は、その世界は長い間、得体のしれない戦争に蝕まれていた。彼らがのんびりと田園生活を楽しんでいる間にも、屋敷はとっくに戦争に取り巻かれ、そしてついに、デイジーといとこたちも戦争に巻き込まれる時がくる。危険が迫る地域からの退避と屋敷の接収のため、デイジーといとこたちは、男性と女性とに分けられて、ホームステイ、ファームステイさせられることになる。デイジーは、幼い従妹パイパーと二人で、様々な局面をからくも生き延びて、愛するいとことの約束を胸に、家への帰還、家族との再会を目指す。

 長々と紹介が続いてしまったが、映画でフェアポート・コンヴェンションの「タム・リン」が流れるのは、冒頭、デイジーを迎えに来てくれたいとこ君のおんぼろ車でのこと。空港に着いたときには、デイジーは大きなヘッドフォンをつけており、おそらく大音響でAmanda Palmerの音楽を聴いている。それから一転、空港からはずれた道端のおんぼろ車に乗せられての「タム・リン」。デイジーは、一言「何これ?」と、顔をしかめる。きっと胸の内には、「なんなの、このだっせー音楽、イギリスなんて、サイッテー、なにもかも、サイッテー」なんて言葉が渦巻いている、かもしれない。
 「タム・リン」のメロディーにのせて、おんぼろ車は都会から田舎へと移り変わる景色の中を走り、緑の丘や林を駆け抜けていく。
 なんと効果的で印象的な音楽の使い方だろう。古くさい音楽のイントロ部分が流れたその瞬間、アメリカとイギリスのカルチュア・ギャップがあらわになり、それと同時に、デイジーが今まさに境界に立ち、見知らぬ世界、新たな世界へと足を踏み入れようとしていること、アメリカからイギリスへ、古い家族から新しい家族へと誘われようとしていることが示される。観客もまた、映像と音楽によって、今、まさに始まろうとしている物語のなかに導かれていく。若干、自虐的な笑いが入っている点もイギリスらしい。
 だが、映画を見終わってしばらくしてから、「タム・リン」がプロローグ、プレリュードとしておかれたと考えて、この映画全体を捉え返してみれば、ただ単に気の利いた演出というにとどまらない意味がありそうだと思えてきた。

 「タム・リン」は、ご承知のとおり、ジャネットあるいはマーガレットなる娘が、緑の野でタム・リンと出会って契りを結び、約束をかわし、そして時は折しもハロウィンの夜、妖精にとらわれた恋人タム・リンを救い出して人間界に取り戻すという物語。このジャネットあるいはマーガレットは、まわりの人の諭しもきかず、恋人タム・リンの忠告もきかず、ものおじしない強い娘。宵闇をぬって野へ出かけ、妖精の騎行に近づいて、タム・リンを馬からひきずり下ろし、恋人タム・リンが次々に人ならぬ姿に身を変えても、決して恐れることを知らない娘。そして、この娘は、お腹の中にタム・リンの子を宿している。この強さは、母親であること、母親になることと結びついていると解釈することもできる。
 アメリカとイギリスのカルチュア・ギャップと先に書いたけれども、念頭に「タム・リン」をおいて映画を振り返ってみると、アメリカからイギリスへの移動は背景にしりぞいて、その上に、もう一つの異界、すなわち戦争という非日常がより際立って見えてくる。
 デイジーは、現代のジャネットもしくはマーガレットである。豊かで複雑な原作の細部はそぎ落とされ、アメリカに置いてきた過去も忘却された。そのかわりに、映画は、戦争という異界にふれてしまった恋人をいかにしてこの世界に取り戻すのかという物語に光を当てる。
 メグ・ローソフの物語は、「タム・リン」を冒頭に掲げた映画によって、純化された、といえる。そう、少女が、約束をかわし契りを結んだ恋人を、自分の手で、自分の力で、探し出し、奪い返す物語に。
 そうであるならば、もしかして、デイジーの体にも子どもが宿っているかもしれない、いや、今はそうでなくても、いずれそうなるのだろう、と想像する誘惑にもかられる。原作においては、デイジーは、母親や母なるものへの深いトラウマを抱えていた。映画ではそうした細部は一切描写されないが、原作あっての映画であり、「タム・リン」であったとすれば、デイジーは、いずれ産む性を肯定し、受け入れていくだろう。もちろん、今はまだ、そして前途は多難である、けれども……。

 蛇足だが、「タム・リン」のみならず、映画全編にわたり、要所要所で音楽が印象的につかわれ、ぴたっと決まっていて素晴らしい。監督は、『ラストキング・オブ・スコットランド』や『第九軍団のワシ』のケヴィン・マクドナルド、音楽は、音楽通には高く評価されているらしいジョン・ホプキンスである。Nick Drakeの「Which Will」、Daughterの「Home」、Natasha Khanの「Garden’s Heart」が、まるでこの映画のためにだけ存在しているかのように場面を輝かせ、意味を深めている。
 さらなる蛇足。この稿を書くにあたり、手元にある英米アイルランドのTam LinとThomas the Rhymerをエンドレスで聴いている。
 Tam Lin by ……
    Fairport Convention from Liege and Leaf.
    Ewan MacColl from Cold Snap.
    Aine Furey from The Other World: Music and Song from Irish Tradition.
    Archie Fisher from Big Bend Killing: The Appalachian Ballad Tradition.
    Steeleye Span from Spanning the Years.
 Young Tambling by Anne Briggs.
 Thomas the Rhymer by……
    Archie Fisher from Big Bend Killing: The Appalachian Ballad Tradition.
    Steeleye Span from Now We Are Six.
などなど。Tam Lin(別名グラスゴー・リール)といういわゆるチューン(インストゥルメンタル)もあり、よく知られているところでは、映画『タイタニック』の演奏で知られるGaelic StormやSteelye Spanの録音がある。

※原作と映画には、大小さまざまの異同、改変があるが、それにはなるべくふれず、原作、映画のどちらについても決定的なところはネタバレにならないように書いたつもりです。