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連載エッセイ “We shall overcome” (32)

「拝啓 メンデルスゾーン 殿」 いがりまさし 2022-01-07

 世界がコロナ禍に見舞われてまもなく2年になろうとしている。原稿執筆時点では、第六波は避けられない気配だ。依然、出口は見えてこない。
 昨年の今頃は、テレワークやリモート配信にどう移行するか世の中は夢中だった。自分も例外ではない。コロナ禍で隔絶された人と人の距離を、どう埋めるかが課題だったと言ってもよい。
 しかし、一年たってみて、それは今生きている人との距離を縮めることができても、世代のちがう人との距離に対しては無力だということに気がついた。
 この会の会員の方なら、数百年を経た無名の作者による口頭伝承の作品に触れたことがあるだろう。
 作者の死後70年以上演奏されることがなかったJ.S.Bachの「マタイ受難曲」を、メンデルスゾーンが再演したことは音楽史上の事件としてあまりにも有名だ。
 筆者個人の経験では、ロンドンのKew植物園のハーバリウで見た一枚の古い標本が記憶に残る。19世紀、スミレの分類の基礎を築いたW.Beckerの筆跡がその標本に残されていた。残念ながら、俄に読めるようなドイツ語力はないが、それにもかかわらず、その台紙に踊る情熱的ともいえる古いペンの筆跡から、100年以上の時を超えて伝わるBeckerの体温のようなものが感じられた。
 我々がいま躍起になって蓄積しているデジタルデータでも同じことが起きるだろうか。デスクトップのHDDに入れて子孫に託そうが、数年ごとに更新しなければすべて失われる。光ディスクにしても同じだ。100年はなんとかもつかもしれないが、その前に、曽孫が何が入っているかわからぬままカラスよけにと果樹にぶらさげる可能性も高い。Youtubeや Facebookにアップしようが、サービスが終了すればなくなる。Yahooブログの貴重なデータが、サービス終了によりすべて失われたのは記憶に新しい。
 自分の生きた証を、死後70年後にメンデルスゾーンに見つけてもらうとしたら、やはり紙の上に書き残すか、さもなくば、子々孫々に語り継ぐだけのインパクトをもって人々の心に直接届けるしかないのである。
 もとよりデジタル化に苦言を呈するつもりはない。7年保存するだけでよい税務書類などに、70年以上保存できる紙を使うのはもったいない。70年後のメンデルスゾーンに見つけもらうどころか、7年間税務調査員に見つからずにすめばさっさと隠滅したい書類だ。
 二、三十年レベルのものはデジタルで十分である。むしろなにかを練り上げるためのツールとしては、紙などの比ではないのは論をまたない。生きてるうちはデジタルでいい。
 その果てに、紙に残し70年後にメンデルスゾーンに見つけてもらうべきものを見極めることを、終活と呼ぶのかもしれない。