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連載エッセイ “We shall overcome” (9)

元気をもらったお相撲さん          桝井幹生   2020-11-03

 子供のときから不器用で、走ることと歩くことしかできず、スポーツといえば短距離の徒競走と山登りぐらいのものである。野球なんぞあんな速い球を細く重たい棒で当てるなんぞ至難の技であった。年をとると走れないし、登山もだめ。アームチェア・クライマーをきめこみ、山の本を読むくらいである。テレビに日本アルプスの剱岳や槍ヶ岳の映像が映るたび、まあ飽きもせず何度も登ったものだと我ながらあきれる。よくも長年学校山岳部の顧問なんかやって事故を起こさなかったもんだ。
もう10年以上になるだろうか、いつのころからかテレビで大相撲を見るようになった。一度だけ大阪の三月場所に行ったが、なにしろ正面の一番上の席から見下ろすものだから遠すぎた。しかもひと番一回こっきり、何が何だかよく分からないまま終わってしまう。その点テレビはよい。特等席で新聞の星取り表をひろげ、灰皿や飲み物をおいてゆっくり楽しむことができる。15日間毎日見るので、勉強会の例会とか、研究会などうざこいものは奇数月は一切やらないことに決めていた。
このコロナ禍の最中でも、日本相撲協会はなんとか工夫してやってくれたので、どれだけ助かったかしれない。

      大相撲 終わってみれば また蒙古

 はじめのうち、蒙古軍団の強さにはほとほと呆れてしまった。でも考えようによっては、たしかに強いと思う。蒙古相撲は相手をたおしてナンボの勝負で、白鵬や鶴竜などあんな狭い土俵などもともとない。むずかしいのじゃないか?休みばっかりでたまに出てきては賜杯をかっさらっていく。日本力士はどうなっているんや!出るのはため息ばかり。元寇のリベンジかいなと思ったりする。
でもどうしてもエールを送りたいモンゴル力士がいる。照ノ富士である。孫の彩翔莉あかりは、赤ちやんのころ照ノ富士そっくりの顔をしていた。大関に上がったとたん無理したのか膝に大けがをして、あれよあれよという間に下に落ちていった。まさかこんなことになると思っていなかったから、アカリちゃんがくるたんび照ノ富士の話をし、「お相撲さんは、どうするの?」と聞くと四股を踏むかっこうをしてくれた。もうそれが言えなくなってしまった。そのうち序二段まで陥落してしまった。内臓にも余病が併発し、相撲人生をあきらめかけた。伊勢ノ浜親方(元横綱旭富士)からとにかく今結論を出さず、体を直してから考えようと諭されたそうだ。それから徐々に這い上がり、私もネットで調べどこまで上がったか調べるのが楽しみだった。本当に地獄を見た男だ。大関から序二段まで落ち、それからまた小結まで帰ってきたのは史上初のことらしい。前は十両からいきなり関脇まで一足飛びだったので、小結は初めての地位とのことである。

 照ノ富士がカムバックし始めた観客なしの大阪場所にやってきたときのことだろうか、贔屓のお客さんが、甥っ子(一つ下の私の妹の三男)がやっている焼き鳥屋に偶然連れてきた。そのときの写真が残っている。おそらくそのお客さんが撮影したものであろう。
その頃はまだ養生していたので、好きな酒も飲まず、焼き鳥の串も三本だけだったという。甥っ子は母親孝行の優しい子だが、大柄だ。横にいる照ノ富士はさすがに大きい。
三年表舞台を留守している間にかつての後輩もみな強くなり、さらに上位を目指すのはむずかしいかもしれない。でも応援してやろうと思っている。そして、
「どや、あかり、ジージーの言ったとおり照ノ富士は強いやろ」と自慢してやりたい。