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連載エッセイ “We shall overcome” (8)

“We ‘might’ overcome……”
    「案山子の季節」        川畑 彰 2020-10-28

 この3年半ほど、1か月1篇を目途にG・M・ブラウン(1921-1996)の作品に関して駄文を弄してきた。この「島に生まれ、島に歌った」詩人・作家の関心は、20世紀から21世紀のこれまで愚考、迷想を重ねてきた筆者に妙に響くところがある。この駄文を送信された数名の友人諸氏には迷惑至極であろうが、筆者にとって受け手の存在は実に有り難い。
10月のトピックのひとつは稔りの秋だからというわけでないが、わが国でおそらく読んだ人は皆無に近いと推測できるMister Scarecrowという‘ghost story’に触発された‘scarecrow’であった。本エッセイはそのミニ再考録である。
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案山子について、かの柳田國男(1875-1962)は「年中行事覚書」(1955年、昭和30年)で「私はまだ案山子の問題には一向手を着けておらぬ」と言いつつ、持論を展開している。語源の「嗅ぐ」から、幾つかの呼称、夜間の番小屋に詰めて鳥獣から作物を守る各地での工夫などを子細に論じている。「始めて鳥獣の嚇しのこの人形を立てた人の心持は、これが自分達の姿のように見えて、相手を誤解させようというのではなかった。形はどうであろうともこれが霊であって、むしろ人間以上の力で昼夜の守護をするものと信じられていた」と述べる。この創造物に人々は鳥獣を寄せ付けない機能を求めながらも、「我々の祖先には単なる動物の生態とか、水とか風とかの自然の法則以外に、別に深く信頼し得るものがあった」と続ける。柳田はここに「自力他力の二様の差別」を見る。案山子に人々の自然への信頼や祈りが仮託されたと言ってもよい。
しかし「近頃は笠の代りに鳥打帽を被せたり、古いタオルの頬冠り」をさせるものの、案山子を「半日も見ていればこれが人間でないことは鳥にもわかる。雀なども引板鳴子には驚くが案山子の頭には折々は来てとまるかも知れない」。それで「案山子の風俗もモダーンになる」。そしてここに柳田が留保付きながら認める「信仰の呪法が技芸となって行く過程」が出来し、われわれ自身と案山子を同一化する視点が生まれるのではないか。案山子がわれわれ―晴天にして心浮き立つ日があれば、連日の雨風でしょぼくれた日もある―の分身として立ち現れる。時に案山子は道化師の風貌を帯びる。等身大の案山子を前に、われわれは親近の情や自虐心を掻き立てられるのである。
技芸は遊び心を刺戟し、遊び心は新たな技芸を創造する。
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 Mister Scarecrowの主役はもの言わぬ案山子。農夫のEricは蒔いたばかりの種に群がるカラスを手で追い払いながら、昨年使用した十字型の棒に使い古しのジャケットと父が教会へ行くときに被った鳥打帽を着せた案山子を見張り番に立たせる。そして妹のMarthaに‘crow, raven, rooks’の何であれ、奴らも神の創造になるゆえ応分の食糧を得る権利があると説く。かくして、あしたに‘scarecrow’の衣のポケットにツグミが歌い、夕べにカラスが肩に止まる。そして‘a drunken dandy’よろしく傾きながら風雨に晒されて立つ。両腕を拡げてすべての創造物を受容するその姿は十字架上のイエス(のパロディ)さながらである。当てにならない天候、厳しい農作業の果ての収穫物におかみからの仮借ない取り立ては、洋の東西を問わぬ現実であった。それでもなんとか迎えた収穫の果てに見る案山子の姿はボロボロである。そして穀物の種さながらに、死して甦るのである。
同作品には時空を越えて動く案山子とでもいうべきAlly Groundwaterという男が登場する。飲兵衛で、女性(にょしょう)と見れば抑制が効かず、数名の私生児と多額の借財で破産寸前である。この男、身から出た錆の責めを負う意志はあるが、どうやら200年前に蒙った不幸ゆえに未だ煉獄を彷徨う一人の女性(Wilma Holm of Witchwood)に憑りつかれて、代理人を通じて裁判に出頭するよう迫られている。AllyはWilmaに関しては身に覚えがあろうはずがないが、先人の咎を引き受ける運命にある。歴史の証人である案山子の霊気が浸透する地を流れる‘groundwater’の運命はわれわれのもの(‘ally’)でもある。
ブラウンの代表作とされる小説Magnusには‘Scarecrow’の章がある。中世オークニーがいまだノルウェー王国の支配下にあった頃、2人の伯(HakonとMagnus)の覇権争いのとばっちりを受けて、領民は傭兵による略奪、殺害の憂き目にあい、畑地は荒らされ、案山子は引き抜き踏み倒される。小作農民のMansは言う。「われわれは一つの民族であり、互いに依存し合い、それぞれがその一部なのだ。牧師、農夫、領主、ティンカー、伯と、われわれは一つの上着に縫い合わされているのだ……ところが、今やこの上着が引きちぎられてしまった。オークニーは素っ裸だ。……これがとどのつまり戦争というものだ―みんなは自分のぼろ布で東風から身を守るしかないのだ」。完璧な衣は神のものであるが、人々はそれぞれが布切れとなって共同体という衣(案山子はその象徴である)を回復・維持しようとするのである。(ある気鋭の論者は、イデオロギーの如何にかかわらず、自然死以外の死者の数が多い治政は悪であると述べる。現代、紛争による死者の絶対数は確実に増加の傾向にある。)
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自己の存在の了解は様々な他者(多様な自然の営み、動植物、そして死者はむろん意義深い他者である)を得て可能になると言われる。他者との相互理解、相互関係はわれわれの存在の根底を成す。「この働きかけられ、働きかけている世界が風土」だと内山節氏は言う(『文明の災禍』)。案山子はかつてその風土の象徴的存在であった。
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ブラウンの詩に各連2行(最終連は3行)の7連で成る‘The Scarecrow in the Schoolmaster’s Oats’があり、 最終連にこうある。
A Hogmanay sun the colour of whisky
Seeps through my rags.
I am ―what you guess―King Barleycorn.
案山子はKing Barleycornを自称する(他にKing Canute、King Midasとも)。自身は雨風の中、酔っ払いの風体で立ち続けるが、世の飲兵衛諸氏に命の水を提供するJohn Barleycornを守護する。ブラウンは正真正銘の酔っ払いであったが、黒衣のバラッド・シンガー(詩人)として島のために歌うことを任務とした。そして詩人は様々な固有名詞(Wilma, Groundwater, Mans etc.)が繰り広げる物語 (織物)を世に送り出した。
案山子はブラウンの創造した世界の比喩としても有効である。案山子の継ぎはぎの布の数々は、時に無関係に見えて、この季節、稔り豊かな風景となって読者を誘っている。
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2020新型コロナウイルス元年も最終ステージである。
当節、近隣の農地にカラスは群がるも案山子の姿はない。