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水を渡る 山田 良_ (2011/6)
「どのようなことを研究されているのですか」と尋ねられると、毎回答えに困る。勉強させていただいている主な場は英文学研究のエリア、関心の中心は演劇だが、とかく地域や時代の枠を飛び越えてつまみ食いをしてしまうことが多い。強く興味を引かれるものに限定しても、舞台劇に加えて語り物などの口承芸能も捨てがたく、それも洋の東西を問わない。特定のテーマを一筋に粘り強く研究されておられる方を見ると尊敬の念を禁じ得ず、自分のようなつまみ食い人間は研究する者としていかがなものかと反省する時もあるが、面白いと思うと放っておけないので、我ながら始末が悪い。なかでも、異なるジャンルを並列させて眺めていると、思いがけない共通点や、もしかして地下水脈で繋がっているのかもと思わせるような類似点などが目につき、精緻を要求する学術研究からしばし離れて、気楽に想像をめぐらせる時の楽しさは格別のものがある。
「水を渡る」というイメージも、そんな魅力的な「アリアドネの糸」の一つである。博覧強記の研究者ならば、この糸を辿って壮大な比較文化学の綴れ織りを展開することができようが、この場ではそのような大それたことは望むべくもなく、春先の縁側で遊ぶ猫の如く、ほんのしばし糸玉を転がしてみようと思う。
演劇の場合、「水を渡る」シーンは、言うまでもなく強い視覚的インパクトがある。「本水」と呼ばれる、舞台上に本物の水を流して行う場合はなおさらである。歌舞伎では、本水を使った合戦の場面などは昔も今も見せ場の一つ。現代劇の舞台で印象的だったのは音楽劇『ブッダ』(1998)である。奥舞台から本舞台にかけて満々と本水をたたえるガンジス河のセット。堀尾幸男による壮大な舞台美術は、終幕、高島政伸演じるブッダがガンジスを渡ってゆく、そのアクションを、此岸から彼岸へと至る「悟り」という心の変容として、鮮やかな視覚的イメージとすることに成功していた。本水を使わなくても「水を渡る」シーンは、観客に強い印象を残す。野田秀樹作の『キル』(1994)。チンギス・ハーンを、「世界に制服(=征服)を着せる」ことを夢見たファッション・デザイナーとして描くという奇想天外な設定の中で、主人公テムジンは朝もやにけむる「シャネルの大河」を渡って、覇王の夢の最後の局面に至る。最近では、松本幸四郎主演で話題になった『カエサル』(2010)。かの有名なルビコン河を渡るくだりがなかなか出てこず、あれ、と思っているうちに、なんと劇全体を締めくくる重要な場面として、一種の回想シーンの形で展開された。そう、「水を渡る」という行為は、単に観客の視覚に訴えるだけでなく、劇の内容においても重要な意味を持っていることが多いのである。
これはやはり、古来より「水を渡る」行為が、多くの神話や伝説が示唆するように、渡る人の心身の根本的な変容を暗示していることと無縁ではなかろう。渡ってゆく水の先には、往々にして異界が待っている。竜宮城、冥界、西方浄土、妖精の国、etc.。英国バラッドでも、海や川、湖といった様々な水場がしばしば登場するが、人物は大抵の場合水辺で死を遂げたり、水を渡ることで異界へと入ってゆく。ボーダー・バラッドに名高いヤロー川をはじめ、水辺はしばしば恋人たちの悲痛な死別の場であるし、昔の恋人にほだされた人妻が死を迎えるのは海上である(“The Daemon Lover”)。うたびとトマスが妖精の女王に誘われて太陽も月もない暗がりの中、遠い海鳴りの響きを聞きつつ渡るのは“red blude”、赤い血の河だが、初めてこのバラッドを読んだ時には、その生々しいイメージに瞠目させられた。若い吟遊詩人が「真の舌」を持つ言の葉の英雄となる過程で、彼が渡ってゆくのは、ただの水ではなく、人類の営み全体を象徴するかのような、悠久の血の河でなければならなかったのだ。
一方、日本の場合も、「三途の川」のように生死を隔てる境界としての水の例は古来より存在するが、日本版バラッド、と呼んでも差支えないであろう、中世日本に端を発する説経節の世界では、「水をくぐる」ことは、むしろ死からの復活、再生という形での変容を描くことが多いように思われる。『小栗判官』でも『しんとく丸』でも、病みやつれ、死か死に等しい体験をしたタイトル・ロールが、最後に辿りつくのは熊野・湯の峰の霊湯である。この湯に浸かることで悪しき因縁は解け去り、主人公は新たな命を得て本復する。「湯に入って生き返る」というところは、温泉好きの日本人の気質ゆえか。そういえば、アニメ映画『千と千尋の神隠し』でも、少女千尋の精神の変容には常に「水を渡る」行為が先立つ一方、現代日本社会で疲弊した神々が癒されるのは温泉旅館「油屋」の巨大な湯船においてであった。
「水を渡る」ことによって、心身は変容し、生死の境界を超える。日本バラッド協会に御縁を得て以来、英国バラッドの世界はさらなる魅力を持って彼岸に見えている。その前には変容の河、というよりは無知と不勉強の泥水が横たわっているのだが、願わくば、諸先生方の御力をお借りしつつ、この河を少しでも渡って精神の変容を体験したい、と思うところである。