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連載エッセイ “We shall overcome” (6)

ソフトウェアの深淵   櫛田 毅 2020-09-28

 「人間ってソフトとハードに分けたらどっちだと思うかな?」と試しに周りの人に訊いてみた。けげんな顔をしながらもハードと答えてくれる人は案の定いなかった。そもそもそんな質問の意図など考えている暇もなかったのだから当たり前である。
ひとはその頭脳を駆使して天体宇宙の神秘から森羅万象、全て知り尽くそうとする叡智のかたまりだ。科学は長足の進歩を遂げやがては作り手を凌駕しようというAIロボットを造りだすまでになっている。下手をすると自身の首を絞めかねない。さしものソフトもここに来るとお手上げ状態と言わざるを得ない。
それもそのはず、このソフトなるものは太古から進化してきたとはいえ、小さな地球上において、ただ考える葦にすぎないひ弱な生物でしかない。してみるとひとはパーフェクトなソフトなどとは程遠く、どちらかと言えば、せいぜい素材を越えたハードウエアかマシーンそのものだとみなしても差し支えないではないか。
僕は去年(正確にはもっと前からだろうが)図らずも大病を患った。肝臓がん。それもステージ4という重篤患者であった。見つかったときはあろうことか死の淵をぐるぐるさまよっていたのだ。今の最新医療でもこのがんの生存率はいうまでもなくきわめて低い。来るものが来たのだ。その時はその時だと覚悟は決めていた。何か月かの闘病生活を経て手術。そして助かったのは奇跡だというほかなかった。「自分が今ここにいる」と実感出来た時、おもわず目に見えない何物かの強い力を感じずにはいられなかった。
いざとなったら一人前に怖さが先に立って、とるものもとらずという心境になるものだ。そんな時不思議な事が起こった。手術入院の前〃日のこと、家の中で歩いていたとき何やらほの温かい柔らかなものが足裏に触れた。あわてて足を引き上げた、そこには何と5cmくらいの白色のヤモリが微動だにせずうずくまっているではないか。どうしてこんな所に何のために?危うく踏み潰すとこだったのに、何と土踏まずのすき間にすっぽりとおさまっていたらしい。足の裏のその部分は神の宿る所とも呼ぶと知って一瞬息を吞む思いがした。白いヤモリは吉兆だと聞いている。たとえ迷信だと分かっていてもその時くらい落ち込んでいた気持ちが救われたことはなかった。
「それは偶然だ」という言い方があるが、とてもあり得ないことにたまたま遭遇したとか、想定外のことが偶発的に起きたとかによく使われるフレーズだ。いい場合もあればよからぬ場合もあるが、しかしそれ以上の詮索はあまりなされない。科学全盛の時代、だからこそ迷信や言われなどもまだまだ健在といえるのだ。僕は今回の事(病気)があったために「死」「生」についてはじめて本気で考えることになった。少々飛躍してしまうけれど、生きることも死ぬこともそして信ずることも決して偶然の出来事ではなく実はすでに出来上がったプログラム通り実行されているのではないか。以前にもそんな風に考えたことはあるにはあるが、何だかいよいよはっきりとそう思えてきたのだ。運命も寿命もそして広大な宇宙さえも。つまり人間がハードであるとするならばそれは誰か不思議な存在者(必ずしも荒唐無稽なものではない)がちゃんとした目的をもってプログラムした結果なのではあるまいか。しかしそれを言うならすでに古代・中世の哲学者や宗教家たちがそれを神の問題として取り上げとっくに結論が出ている、すなわち神不在は自明の理とされているのだ。平たく言えば正確な根拠や確証が得られない解答は答えにならないとする科学的立場から「神は死んだ」ことになっているらしい。
「神」という代わりに僕は「造物主」と呼ぶ。宗教一般の神と混同しないためでもあるが、神が万物を創造した、というよりはぐっとリアルな表現になるからだ。それはともかく造物主にまだこだわるとしたらその比類なき緻密な設計には驚くしかない。僕は特殊な霊能者でもなければ占い師なんぞではさらさらないが、前にも言ったように予期せぬ思いもよらぬ事には何度も出会っている。だから証明できる云々ではなく、そのもの自体や現象を信じ切れるかどうかということだと思う。日本には八百万(やおよろず)の神様がいて苦しい時の神頼みという言葉もあるくらいだ。西洋・東洋に於いてもさまざまな教会が信仰の要となって人心に寄り添っている。すがる気持ちはみな同じだ。でもその先に踏み込んで語られることは少ない。素朴で幼稚な空想・幻想の世界に入るからだろうか。信仰深い人々には問題にならないことかもしれない。だが僕はここであえて造物主の存在を明確にし、設計者の意図するところを改めて問うてみる。それは同時に「神とは何か」をあらためて問うとてつもない波乱に満ちた冒険の旅でもある。多くの人がたどり来た道でもあり時間もあまりないが自分なりに行けるところまで行ってみようと決心した。たとえ途上で踏破不能になったとしても、己の心の灯が消えることなく、プログラミングの意図する生命の価値・意味をいささかなりとも再認識することが許されるとすれば本望である。かくして消滅を回避し甦生したソフトウエアは深淵にして澱むことを知らない。