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「プリテクスト」 川畑 彰_(2009/01)
炎暑の夏、英国の応用言語学者H.G.ウィドウソンの所見に誘われてプリテクスト(pretext)について考えた*。ウィドウソンがプリテクストについて注目するのは、個人がテクストについて予備的、予断的にもつ態度とその結果である。プリテクストとは情報(テクスト)の受け手である個人の側におけるテクストの吟味、解釈以前の言わば「見切り」行為である。
さて、本文を読み始めたものの、いったい何なの藪から棒に、とバラッドと何の関係もないことを述べ立てる筆者のKYぶりを訝り、読む前に早々と本文を放棄する読者がいるに違いない。その場合、結果として筆者が本エッセイでもくろむ読者とのコミュニケーションは挫折する。あるいは仮に無理をして読者が読み進んだとして、著者の意図が正当に読み取られない恐れがある。プリテクスト性とは、例えて言えば、読者の側におけるこのような予見を指す。(ついでながら、このことと、テクストの読みや解釈の多様性は別問題である。また、読者のプリテクスト的直感が当たっている場合も当然あろう。)
このプリテクスト的傾向が政治的な党派性を帯びた言述において顕著なのは想像に難くない。また、プリテクスト性を問うことはテクストそのものを問うことに他ならず、テクストとことばの関係を問うことでもある。筆者はテクストを、狭義にはわれわれの日々の思考、行動と直接関連することばによる自己表出と考える。そして広義には、われわれの日常の思考、行動と必ずしも直結するわけではないが、人的交流・森羅万象を一種のテクストとし、それに対してわれわれの内なる表現(相互関連テクスト)を見出す場合である。テクストが書記形式によるか、話しことばによるかは本質的な問題ではない。
個人と個人、党派、国家、民族、はては文学テクストを介しての作者と読者の間など、世にはさまざまなコミュニケーションの形式が有り、当事者にはさまざまな非対称的、非均質的要素が介在する。そしてコミュニケーションの多くが思うほどは容易に達成されないのは周知のとおりで、コミュニケーションを難しくする要素は概ね当事者のプリテクスト性に由来すると考えてよい。
重要なことは、このプリテクスト性をネガティヴな要素のまま放置せず、コミュニケーション能力の改善に活かすことである。われわれが現実世界の利害や特定の文化に囚われた思考を繰り返すかぎり、それは叶わない。コミュニケーションを阻害するプリテクスト的予見を防ぐには、現実を全体として見渡す、言語遊戯や笑いの精神を基盤とする認識が不可欠であろう。あるいはまた、われわれが生きる社会的コンテクストからいったん分離することで可能な新しいコンテクスト(文学テクスト)の創造も有効な手立ての一つであろう。
ところで、テクスト(text)の原義は(物語を)「織り成す」(to weave)行為である。ゆえにプリテクスト(pretext) とは、常識的には(1)書記形式以前の口承により織り成される物語があろうし、(2)現代の辞書的意味として、対人、つまり他者の面前での言語表現、俗に「言い訳」、「うわべだけの言い逃れ、口実」としての織り成しがある。本論では(3)としてウィドウソンの読み手、聞き手側におけるテクストを前にしての予備的態度を紹介した。(1)について、口承のテクストは自然発生的というほど単純でないであろうし、書記テクストが口承テクストより優れているとの判断は現代人の驕りである。また伝承テクストの多くが書記テクストとして後世に残るとの事情もある。人間の言語表現は時代、形式を問わず、本来的に物語的なことをここで再度確認しておこう。さらに(2) の対人的屁理屈と(3) の敵前逃亡的言辞は一見似て非なるもののようで、物語に向き合わない点では同類である。現実の一面に囚われた予断は「コミュニケーション不全症候群」の主たる原因であるとの推測は先に述べた。
口承形式であれ、書記形式であれ、バラッドのテクストは実に独特で刺激的な現実認識に基づいた語りに満ち溢れている。本論の次のステップは、バラッドの具体的なテクストに関するものであるべき/はずである。しかし筆者にはもはや論じるべきスペースが尽きた。本エッセイは結局、先のカテゴリー(2)のプリテクストに終始してしまった。それは読者の予見どおりで、筆者は伏してお詫びするしかない。
* Widdowson, H.G. (2002) Text, Context, Pretext; Critical Issues in Discourse Analysis. Blackwell Publishing.