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Child 教授の生涯を追って―彼につきまとった「気後れ」 福吉瑛子_(2009/4)
Harvardのバラッド学者、F.J.Child教授の生涯については、いまだにまとまった評伝が英米においても書かれていない。限られた資料から彼の生涯を追ってみると、いくつかの疑問が手元に残る。それらの疑問は、大きく分けると、彼のバラッド研究に伴ったであろう「気後れ」と、それでも遂にそれを敢行した彼の「革新性」とにかかわることである。今回はこの「気後れ」と思われる部分にのみ言及し、「革新性」については稿をあらためたい。
彼が生涯を通じて感じたのではないかと思われる「気後れ」は、幾重にも重なって彼の身を包んでいたと思われる。その何枚かの層を疑問の形で挙げてみる。
1)彼の生い立った家庭―彼の父はsail-makerであったが、当時のBostonのこの手の職人がどの位のステータスだったのか。どちら にしても、ラテン学校もHarvardも、授業料はラテン学校校長の立替という、イギリス流にいえば‘Scholarship boy’的であった彼が、あのBoston Brahminの巣のようなHarvardで、学生として教授としてこの自分の出自をいかに抱えていったのだろうか。
2)何故バラッドだったのか―彼は専門として、SpenserでもChaucerでもShakespeareでも選べたはずである。事実彼の Shakespeare講義は大好評であった。留学先のGrimm 兄弟らの影響が大きかったのだとは思うが、上で述べた彼の生い立ちからも、彼には、バラッドでうたわれているfolkへの共感が強くあったのではないだろ うか。HarvardでShakespeareをやっていれば感じないですんだかもしれない「気後れ」をたとえ抱えるとしても、Childにはバラッドの 世界が自分の世界として迫ってきたのだと思われる。
3)何故「イギリス文学講座」の教授になるのが51歳まで遅れたのか―1850年にドイツ留学から帰国して以来、実に25年間、彼は学生のラテ ン文学暗誦チェックと英作文添削という膨大な教育負担を毎週、毎学期、毎年まかされる。76年に、Harvard大学当局に、他大学への転職をほのめかし てやっと「イギリス文学講座」を開設させ、Harvardの初代のイギリス文学講座教授となる。当時のHarvardにとって「イギリス文学」の位置付けはどの程度のものだったのか。またChildにこのポストを与えることが何故このよう に遅れたのか。Longfellowはわずらわしがって定期試験さえしなかったという。Childは学生対応の有能な「職人」として重宝されていただけなのか。 4)何故Childは当時のNew Englandの文人とつきあわなかったのか―先に述べたLongfellowや、Emerson, Thoreau, Hawthorneらについての彼の言及が手紙などにもない。仮にもHarvardの文学講座の教授なのに。例外的に親友として付き合っていたのは James Russell LowellとWilliam Jamesである。そもそもこの二人も当時のBoston のエリート家系でありながら、その界隈からtranscendentしていた人間である。ChildはLongfellowらには、一種の気後れと肌合いの違いを感じていたに違いない。彼らの「超絶」した詩作品と、素朴なバラッドとの折り合いがつかなかったものと思われる。
5)何故Childはイギリスに足繁く通わなかったのか―Harvard教授の肩書きと資金があれば、もっと頻繁に直接イギリスに資料収集に出かけてもいいはずだし、Furnivall らに直接談判したいこともあったはずである。Edinburgh大学でのMacmathとの会見でさえ短時間ですませ、そそくさという感じで帰っている。 先のHawthorneやEmersonに続きHenry Jamesらは、50~80年代に何回もイギリスに出かけ、イギリス記をものしている。先のLowellは大使としてロンドンにあり、Childに訪英をしきりに勧めている。Childを ‘American Scholar’の典型と賞賛している評論もあるが、ここに当時のアメリカ人のヨーロッパ大陸やイギリスに対する「気後れ」や、もしかしてイギリスの大学 においてさえ、バラッド研究がまだマイナーでさえないことに対するChildの気後れがあったのではないだろうか。
6)妻の実家である名門Sedgwick家とのつきあい―25歳でHarvardのまだ数少ないfacultyの一員となったChildは、 sail-makerやsailorやhouse carpenterの娘と結婚するわけにはいかなかったのか、ボストン名士の住むStockbridgeの名門Sedgwick家の娘と結婚する。しか し、病弱で、顔はplainで、年はChildと同じく30台半ばと聞くと、何か複雑な思いがする。Childにとって名門との社交的な付き合いは重荷であったと思われる。ただでさえ講義、課題添削、図書館運営委員などの公務をこなしながら、一方ではESPB(The English and Scottish Popular Ballads)の編集に当たっていたわけであるからなおさらのことだ。3人の娘も社交界に出しそれなりの人と結婚させてやらねばならない。キャンパス近郊の Kirkland Streetにある彼の自宅は、300種以上のバラを彼が手入れする程の庭付きの3階建ての大邸宅だが、Harvardの俸給だけでこれを手に入れられたのかはわからない。(ちなみにLongfellowの大邸宅は、妻の実家からの結婚プレゼントである)。
夏休みはChildにとってESPB編 集の書きいれ時である。しかし、妻と娘たちは大体避暑地での社交のため家をあけている。Childが病院で亡くなった時もそうであり、のちに牧師となった 息子だけがみとっている。遺体は、当時としては珍しい火葬となったが、彼のお墓は、Child家ではなく、Stockbridgeの ‘Sedgwick Circle’とよばれるお墓の円陣群の中の一つとなっている。(これでは多分brierは生えていないだろう)。
Childは、博覧強記の巨人で、ESPBのような前人未到の偉業を個人で成し遂げた鉄人のように思われかねないが、上でみたようなさまざまな状況の中で、あえぐようにしてESPBに心血を注いでいたように思われる。