information情報広場

パブセッション

(木田直子連載エッセイ-9)

 所謂英国式パブに行ったことは2回しかなかった。1回目は新婚旅行のロンドン。新婚旅行だと知ると見知らぬアイルランド人たちが祝ってビールをおごってくれた。2回目は主人の長期出張先だったアイルランドの片田舎。朽ちた城以外何もない町にポツンとあるパブで食事をした。

 さて、アラプールフェッシュ初日の晩、
「バプに行く」
と夫が言い出した。
「フェッシュの夜はみんなパブに行くんだよ」
 早朝から人生初めて訛りの強い英語攻めに合い、訳のわからないままティータイムを経験し、意味の分からない歌を歌う羽目になり、半泣きになった私には飲みに行く元気なんて残っていなかったが、夫に押し切られ夜10時頃パブに行くことになった。
 アラプールはぐるり一周しても30分とかからない小さな港町だが、フェリーが出ているのでパブやイン(パブの二階が部屋になっている宿泊施設)が多い。パブに入ると、カウンターの前まで客が鈴なりになって賑やかにしゃべりながら部屋の中心に視線を注いでいた。視線の先には演奏者20~30人が円になって座っていた。フェッシュの参加者だ。先生生徒入り交じっている。フィドル(バイオリン)、チェロ、アコーディオン、ギター、マンドリン、フルート、ホイッスル、ボーラン(太鼓)などによってスコットランドの曲が次々と奏でられる。演奏者は楽譜を持っていない。まず誰か一人が何か弾きはじめる。するとその曲を知っている人が演奏に参加してゆく。同じフレーズがくり返し演奏されるので、その場でメロディーを覚えた人やコード進行がわかった人が徐々に演奏に加わって、最終的には大合奏になる。客たちも手拍子や足踏みで演奏に加わる。これが「ミュージックバブ」の「パブセッション」。たまに先生たちは、クラスで練習した曲を演奏し始める。生徒たちは日中習った曲をその日の夜、観客のいる前で演奏できる。即実践。みんなで演奏するから間違えたって気にならないし楽しめる。なるほど、これが夫の言っていた、
「フェッシュの夜はみんなパブに行く」
ということなのかと納得した。

 夫はフルートとクラルサッハを持参していた。
「真ん中で弾いてくれば?」
と私が言っても、ここまで来て夫は弱腰。無理もない。私たちの存在そのものが周囲の目を引き過ぎていた。私たちはアラプールフェッシュ史上初の日本人参加者だったし、パブどころか、アラプールに東洋人は私たちしかいなかった。逆に例えるなら、三陸の小さな漁港の居酒屋に背の高い金髪青い目の白人が二人紛れ込んだと言ったところか?そこで、もし外人さんが尺八や三味線で日本の古い曲を弾き始めたら、店中びっくりだ。
 弱腰の夫のそばにクラルサッハのクラスメートのロッドがやってきた。挨拶を交わすと、ロッドは金属ホイッスルを取り出した。ホイッスルとはリコーダーに似た縦笛。彼はご自慢のホイッスルを吹いてみせた。大きな手、太い指が、太いローホイッスル(低音のホイッスル)の大きな穴を器用に塞いだ。すると、夫も勇気が出たらしくフルートを出した。夫がスコットランドの曲を吹くとロッドがそれに合わせた。店の片隅で二人のセッションが始まった。周囲は二人のセッションを温かく見守り拍手をくれた。その後、夫はクラルサッハでスコットランドやアイルランドの曲を弾いた。繊細な音色のクラルサッハがパブで弾かれるのは稀である。もの珍しさも手伝って、夫は多くの拍手や賛辞をもらった。
 日付が変わってもみんなの熱いセッションは続いていた。嘘か本当か、多くのスコットランド人は、
「夏は明るくてもったいないから寝ないんだよ」
と言うが、私に彼らのような体力はない。寝ないと明日のクラスに差し支える。帰ろうとしたところ、夫が若い男性に呼び止められた。地方新聞社の記者だった。
「なぜここに来たんだ?!」
と不思議そうにインタビューされた。新聞に「パブでスコティッシュを演奏する奇妙な日本人」などと載ったかどうかは、わからない。