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吉賀憲夫『旅行家トマス・ペナント スコットランド旅行記』
吉賀憲夫『旅行家トマス・ペナント スコットランド旅行記』晃学出版、2012年
[解題者:森野聡子 静岡大学情報学部情報社会学科教授
ウェールズ大学アバリストゥイス校大学院にて博士号取得
著書:『ピクチャレク・ウェールズの創造と変容―19世紀ウェールズの観光言説と詩に表象される民族的イメージの考察』青山社、2007年; 『ウェールズへの旅 ~英国18-19世紀紀行記・案内書復刻集成』 (Picturesque Wales: Facsimile Reprints of “Pennant’s Tours” and “Wales Illustrated”) (監修・解説) Eureka Press、2009年、など。]
連合王国のケルト諸語地域ウェールズの歴史、文化を、18~19世紀に出版された「旅行記」から紐解くという作業に取り組んできた著者が、スコットランドに眼を転じて送り出したのが本書である。二つの地域を取り結ぶ役割を果たしたのがトマス・ペナント(Thomas Pennant, 1726-1798) だ。『旅人のウェールズ―旅行記でたどる歴史と文化と人』(晃学出版、2004年)でペナントの代表作『ウェールズ旅行記』(Tour in Wales, 1784) を紹介したのに続き、本書では、ペナントがウェールズ旅行に先立って発表した二つの旅行記『一七六九年のスコットランド旅行』(A Tour in Scotland in 1769, 1771) と『一七七二年のスコットランド旅行とヘブリディーズ諸島への航海』(A Tour in Scotland, and Voyage to the Hebrides; 1772, 1774-1775) が取り上げられている。
ペナントは、北ウェールズはフリントシャーに所領を持つジェントリで、博物学者、古事愛好家として当時、知られていた。しかし今日では、旅行家としての評価が高い。というのも、ペナントの学問的業績が時とともに色褪せていったのとは逆に、彼の旅行記は、近代国家と産業社会へ移行する18世紀末の連合王国を自ら旅して切り取った見聞録として、ますます史料的価値を高めているからである。それは、ペナントの旅行が観光名所をめぐる物見遊山ではなく、訪問した土地の風土的特色を克明に観察・記録するという、フィールドワークに近いものであったことに由来する。本書が題名に「旅行家トマス・ペナント」と銘打つ所以である。
18世紀に刊行されたスコットランドの旅行記というと、サミュエル・ジョンソンの『スコットランド西方諸島への旅』(A Journey to the Western Islands of Scotland, 1775) がつとに有名であり、ペナントの旅行記は日本では翻訳紹介もされていない。著者はしかし、ペナントの旅行記は、ジャコバイトの反乱以降、伝統社会から変貌するさなかのスコットランドを忠実に見聞した同時代的記録として、その後のスコットランド再評価に貢献したことを指摘する。また、発表当時ベストセラーとなり次々に改訂版が出版された理由として、現地の知識人を対象としたアンケートで情報を収集するといった新しい手法を駆使したガイドブックとしての情報の質の高さに加え、地誌学、博物学、歴史学、民俗学等を融合した「新しい旅行記のスタイルを創出した」(56)点を挙げる。そして、こうした百科事典的な旅行記を一般読者にもアクセスしやすい形で提供するために用いられたのが、図版の多用や、逸話を織り込んだ平易な文章であったとする。まさに18世紀という啓蒙の時代が生んだ本書の、旅行記を超えた魅力を提示するのが著者の意図であると見受けた。
ペナントの家系、生涯、著作、そしてさまざまな研究者との交友関係をつづった第二章に続き、ペナントの二つのスコットランド旅行記が、原著からの引用や図版とともに三章にわたって紹介され、日本の読者にとっては、原著のコンパクトな要約、かつ示唆に富む「注解」付き解説となっている。具体的に見てみよう。
第三章では、1769年6月20日にイングランド国境のチェスターに入ったペナントが、約2か月後にブリテン政府軍とジャコバイト反乱軍の決戦の地、カロデンを訪れた際のことが、旅行記の記述をもとに紹介されている。「この地は、一七四六年四月十六日の勝利により、北ブリテンが今日の繁栄を勝ち取った場所である」という原著からの引用に続き、著者は次のようにコメントする。
この彼の言葉に、政府軍の勝利が、スコットランドの古い体制、すなわちクラン制の息の根を止め、スコットランドに近代化と繁栄をもたらしたと考えるハノーヴァー朝支持者としてのペナントを見ることができる。さらに彼は「連合王国に多大なる恩恵をもたらしたその勝利の後に続いたいくつかのやり過ぎには目をつぶっておこう」(『六九年の旅』一三六)と言い、政府軍が戦いの後に反乱軍逃亡兵に行った虐殺等の過酷な質地に対し寛容な態度を示す(155)。
このくだりで、ジャコバイトが奉じるステュアート家の王位継承者、「若僭称者」ことボニー・プリンス・チャールズの肖像画をペナントが自宅に飾っていたという、序論で披露された逸話を思い返す読者も多いだろう。「妻の母の愛した絵として受け入れ、それを堂々と飾った」(83-84)ペナントの人となりを浮彫にしようとする著者の姿がそこにはある。
本書ではさらに、ジョンソンをはじめとする他の旅行者の発言が参照され、ペナントの見聞の特徴をより立体的に肉付けている。中でも興味深いのが、『一七七二年のスコットランド旅行とヘブリディーズ諸島への航海』にジョーゼフ・バンクスによるスタッファ島調査録と図版が掲載された経緯である。ペナント自身は1772年の2回目のスコットランド旅行の際スタッファ島をめざすも、上陸はかなわなかった。そこで、かつてのプロテジェ、バンクスが1か月後に島を踏破し綿密な調査報告をものにすると、さっそくそれを借用、バンクスに同行した画家によるスケッチも版画として複製し、自著に挿入してしまう。彼の行為は同時代人からは「剽窃」として批判され、さらに後年、王立協会の中心メンバーとしてアカデミズムに君臨するバンクスとの不和にもつながった。25歳でクックの南太平洋探検に科学スタッフとして参加、前年の1771年に帰国した新進気鋭の植物学者バンクスと、17歳年長の動物学者ペナント。その後の二人の研究者としての地位の逆転劇に、著者は連合王国における博物学の変容を垣間見る(58)。
知が制度化され、研究者の専有物になっていく近代西欧において、啓蒙のためには他人の知的財産も無頓着に利用してしまうペナントは、18世紀的な知識人の最後の姿と言えるかもしれない。本書は日本ではあまり知られていないペナントの人生と著作に光を当てることで、彼の旅行記の内容を紹介するのみならず、その業績の意義や当時のアカデミズムの動向を解説するものである。それだけではない。ペナントの旅行記における図版の力を再三、力説する著者は、二つのスコットランド旅行記で134枚の図版を活用したペナントにあやかるかのごとく、本書でも80を超える画像をふんだんに使っている。随所に挿入された逸話もペナント流。本書自体が、18世紀後半のスコットランドの土地や風俗についての格好のガイドブックとして一般読者にも楽しめるものとなっていることを喜びたい。