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連載エッセイ “We shall overcome” (25)
コロナ自粛は自分を見直す時間 前田信幸 2021-06-26
私のメインワークは絵を描くことです。私の画法を用いている人はそう多くはないと思います、というのも、古代の洞窟画に近いからです。アルタミラ、ラスコーなど、また日本の古墳に描かれた絵を思い浮かべてみてください。私は自分の絵画手法を「土彩画」と名付けています。水彩、油彩とも異なり、粘土がメインで、水、墨汁、炭、石膏、多少の顔彩、それに水性接着剤が絵具となります。陶磁器の絵付けにちょっと似ているかもしれません。たまたま手元に赤い粘土があり、それで描いたのが始まりです。画材費の節約もありました、粘土はタダですから。この絵を描くとき困るのは、乾かないとどんな絵になるのか分からない、というところです。
画題については、私が描くのはほとんどが人物、犬・猫などの身近な生きもので、写実はしません。私は記憶の中の彼らに乗り移り、画面の中では、話し下手な私に代わって、祈りを、願いを、哀しみを、怒りを、愛を、彼らがおしゃべりしてくれるのです。
絵に目覚めたのは青春時代、18歳の時でした。西南学院大学に入学、学力は最下位ランク、運動経験まるでなし。何の目的もなく、同郷の友に誘われ、何と柔道部へ入部しました。案の定、打ちのめされました。柔道部は3カ月も持たず、根性なしでした。退部後ぼーっとしてる時に出会ったのが美術クラブでした。すてきな女性たちがいました。即、入部し、のめり込みました。ですから、経済学部卒ではなく、美術部卒と自負しています。画家になると決め、卒業後は夜の仕事や配達業で金を貯め、シベリア、モスクワ経由でパリへたどり着き、国立美術学校ボザールへ入学しました。毎日毎日デッサン、実技ばかり学んでいました。美術学校を卒業する気はハナからありませんから、一にも二にも実技。美術館やギャラリーも勉強の場所でした。生活するために仕事もしました。ベトナム料理屋に飛び込んで下働き、中華レストランでも厨房の手伝いをしました。重労働でしたが、働かせてもらえることが有り難かったです。
恋をしてフランス語を教えてもらいました。
4年後に帰国し、それからは絵を描くために働きました。それでも、絵だけで食えたことはこの歳までありません。配偶者の助けがあってこそ今日まで描き続けることが出来ました。絵だけでなく、いろんな出会いでできた仲間たち(バラッド協会事務局の山中さん中島さんとはワンちゃん仲間で、20年程前に市営ドッグラン設立に共に汗を流しました)、そして家族の助けがあって、描き続けられています。幸せなことと感謝する日々でもあります。
2000年、53歳の時、突如、アメリカでの個展を思いつきました。作品に多少の自負も持っていましたし、アメリカでどんな反応があるやら興味もありました。あわよくばアメリカでの成功という朗報がないとも言えぬと皮算用しました。作品を手に、私は初秋のニューヨークに降り立ちました。「ニューヨークのブロードウェイで個展する。夢みたいだ。」と思ったのも束の間、今思い出しても失敗ばかりでした。ネットでギャラリーを契約したのですが、そのギャラリーがまず私を挫いたのです。ブロードウェイはニューヨークの中心と思っていたのですが、東京の銀座と同じく、ブロードウェイのギャラリーにはピンキリがありました。私がそのギャラリーに決めた理由は、会場賃貸料が東京と較べてもやたら安かったからです。ギャラリーがある古いビルの前に立ち、声もありませんでした。小さなプレートが掛かっているだけの雑居ビル。古ぼけた扉の先、廊下の奥にエレベーターがあって、5階へ昇ると会場は思いのほか広かったのですが、そこではすでに小さな個展が幾つかと所蔵の作品展示があっていました。わたしの展示スペースはその一部、やたら事務的な年配の太った親父がオーナーでした。ちょっと落胆。ともかく、作品を壁に掛け、まあまあかなと気を取り直しました。翌日から会場に詰めましたが、期待したほどの人出はありません。宣伝もしてない訳ですから無理もないのですが、「それにしても」と気も沈みます。日がな一日、ぼんやり煙草をくゆらすだけ。さしたる出会いも収穫もないまま、日は過ぎました。個展の終わり頃に、高校生の息子がニューヨークに着きました。アメリカを見せてやりたいと招いたのです。ニューヨークの街を親子二人で歩き、息子も私もこの街にすっかり興奮し楽しみました。ブロードウェイでミュージカルを見、買い物をし、あちこち見て歩き、ワールドトレードセンターにも登りました。このビルは1年後にアメリカ同時多発テロ事件で崩壊しました。私のニューヨーク初個展は苦い思い出となって終わりました。しばらく街を楽しんだ息子に展示作品を持たせ帰国させました。
それから、私のアメリカ一周グレイハウンドバス行脚が始まりました。1カ月のオープンチケットを買っており、グレイハウンドバスを利用したことがある人ならご存知でしょうが、アメリカのどこへでもどれだけ乗ってもこの路線なら乗り放題なのです。このバス行脚では自分に課していたルールがありました、それは出来る限り夜行バスに乗ることです。夜に乗車し、翌朝目的地に降り、宿泊費を節約し、昼間の明るい時間に街を見てまわって出来る限り多くの都市を訪ね、もちろん美術館へ行くと。
まずは北へ。ボストン、カナダ国境のナイアガラフォール、シカゴへ。バスの旅は私の性に合っており楽しいものでした。夜は勿論車内で寝ますが、客は男女とも庶民ばかり、多分金持ちはいないし、子供はまず乗って来ません。彼らは仕事、出稼ぎ、帰郷、どんな目的で夜行バスに乗っているのだろうか。観光客らしい人はおらず、客は入れ代わり立ち代わり変わっていきます。バスは西部劇で見た荒野、田園地帯、市街地を走って行きます。時折の休憩には飲食物を仕入れます。名前を知っている都市では下車して街を散策し、美術館を巡ります。日が落ち夕食を済ませるとまたバスに乗り、眠ります。アメリカは広い。次の都市に着くころにちょうど夜が明けます。シカゴ、オクラホマ、デンバーへ。西海岸に近づきロッキー山脈沿いに南下し、ラスベガス、ニューメキシコ、アルバカーキへ。サンタフェでは絵描き志望の若いアメリカ女性と再会しました。その夜は彼女の友人らに誘われて一緒に食べ飲みました。私の英会話力では追いつけませんでしたが、それでもこの旅の唯一の楽しい時間を過ごしました。彼女はその後福岡を訪れ、旧交を温めることができました。
エルパソでは国境を越えメキシコの街をちょっと散歩しました。この町のホテルで日本の若者二人と出会い、レンタカーを借りて、白い砂漠、ホワイトサンズへも行きました。ダラス、ヒューストン、ニューオリンズ、アトランタ、ワシントン。これら以外の都市にも寄ったのですが、もはや記憶は曖昧です。
グレイハウンドバス行脚を終え、再びニューヨークに戻りました。車窓から見るアメリカはとてつもなく広く、変化に満ち、飽きることのない旅でした。下車したどの街でも、よく歩き回りました。夜にバスに乗り込み、車内でひと眠りし、翌朝目的地に着くのは理想的でした。でも実は、バスターミナルは町のはずれの、ちょっと寂しい所に多くあり、裕福でなさそうな、得体の知れぬ男らがたむろする物騒な雰囲気もあったのです。この時間、若い女性客などほぼいませんでした。飄々とした一人旅ではありましたが、内心はやたら気を遣っていました。リュックを盗まれたらアウト、一大事。出発までの時間をとてつもなく長く感じていました。
今思うのは、こんな旅を50歳過ぎのおじさんがよくやったなあ、です。学生時代に読んだ小田実の『何でも見てやろう』(1961年)の影響かとも思います。学生時代の二度にわたる日本一周ヒッチハイク旅、卒業後の4年間のフランス美術留学しかり。臆病な私ですが、自分を試すことは平気でした。と言っても、これらの経験を機に私自身が変わったということもないようです。労働も制作も苦とは思いませんが、あくせく足掻くのも性に合っていません。まだまだといつも思っています。2021年の今74歳。この齢になっても一向に芽は出ないのですが、幸いなことに、制作する体力そして意欲があります。何より周りの支えがある、それが私の宝です。
コロナ自粛の日々、人出の多い町中に出かけることは減りました。その分、絵を描く時間が増えました。庭の小さな畑ではトマト、きゅうり、ゴーヤ、オクラ、青菜類など、借りた畑では大根、ジャガイモ、人参、サツマイモなどを栽培し、お百姓さんの仕事はホント大変だなと思う日々です。16歳間近のゴールデンレトリバー犬ロッキーとの散歩、便秘気味の猫のケア、大工工作遊び、家族との時間も増えました。ここ5、6年は度々配偶者と、近郊の山から久住連山、屋久島、霧島、北は、北アルプスの立山、穂高などなど、登山する機会が増えていましたが、コロナ自粛の中でもたまに楽しんでいます。好きな作家は中島敦、山崎豊子、ルーシー・モンゴメリー、シャーロット・ブロンテ、Antoine Saint-Exupery、重松清など。ですが、この頃は目が霞んで読むのが辛くなり、ベッドで寝ころび、英語仏語の初級会話本を少々、阿弥陀経の解説書をチョイかじりで眠ります。
コロナの鎮静化はまだ先のことでしょう。今後の五輪は、オリンピックイヤーとして競技種目を世界の都市で分散し開催する意見に個人としては賛成しています。ともかく、新型変形コロナには気を付け、健康を心がけましょう。
土彩画ギャラリー
http://dosaiga.blog.jp