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連載エッセイ “We shall overcome” (27)
死出の旅はバラッドのリズムで? 水野眞理 2021-08-26
アメリカのよく知られた歌の一つに”The Yellow Rose of Texas”(「テキサスの黄色いバラ」)という曲がある。自分の彼女はテキサス一の可愛い子ちゃんだが、訳あって今は離れて悲しい思いをさせている、帰ったら彼女とまた楽しくやろう、といった素朴な歌詞がついている。そのメロディは日本でも多くの人が聞けば「ああ、これね」と認識できるものである。この歌を最初に流行らせたのは1850年代、白人が顔を黒く塗って演じたミンストレル・ショーの役者兼作曲家E・P・クリスティーであったという。1 歌の中の人物は自らを”darkey”と呼び、”yellow”と形容される彼女は、混血で肌の色がやや薄いことを指しているのだと言われる。これが1860年代の南北戦争期に南軍の兵士の間で歌われるようになり、歌詞の”darkey”が”soldier”や”fellow”と差し替えられて、この歌の人種的な要素は中和された。現在よく耳にするのはこの時代以降のヴァージョンであり、最も人口に膾炙している演奏は、1955年ミッチ・ミラー楽団による鼓笛をバックに全米のNo.1ヒットとなった陽気な行進曲スタイルのものである。それは次のように始まる(演奏によって歌詞は多少異なる)。
There’s a yellow rose in Texas テキサスに黄色いバラが咲いてる
That I am gonna see これから会いに行くんだ
Nobody else could miss her, おいらほど彼女を
Not half as much as me おいらの半分も恋しく思う奴はいない
She cried so when I left her, 別れ際に彼女があまり泣くもんだから
It like to broke my heart おいらは心がはりさけそうだった
And if I ever find her だから再会できたら
We never more will part もう絶対離れない
….2
一昨年の夏に、マサチューセッツ州の旅をしたとき、まったく意外なところでこのメロディを耳にした。私はアメリカ文学者の夫にくっついて作家たちの旧跡を廻っていた。訪問先はナサニエル・ホーソーン、ハーマン・メルヴィル、マーク・トウェイン、ハリエット・ビーチャー・ストウ、イーディス・ウォートン、エミリー・ディキンソンなどの旧宅である。こうして並べてみるだけでも、19世紀のマサチューセッツを中心とするニュー・イングランドにただならぬ熱量の文学があったことが実感される。こういった作家の旧宅の多くは、現在ではミュージアムとなっていて、訪問者はその家で作家がどのような暮らしをしていたのか、彼らが食事をしたテーブルや食器から横たわったベッドまで見ることができる。そして、ガイドに導かれたツアーでは、作家の生涯や作品の成立背景など、わかりやすい説明を聞くことができる。ガイドを務めるのは多くは駆け出しの若い研究者たちで、ユーモアも交えながら素人訪問者を楽しませてくれる。
アマーストにあるエミリー・ディキンソンの旧宅の二階のひと部屋はちょっとしたセミナールームのようにしつらえられてあり、若いガイドがパワーポイントを使ってディキンソンの詩を解説してくれた。彼は、私たちを含めて10人ほどの見学者を前に有名な”Because I could not stop for Death”を紹介し、「この詩の韻律はバラッド・ミーターです。要するに、『テキサスの黄色いバラ』と同じリズムなんです。」と言った。私は我が耳を疑った。他の見学者の間にもちょっとした驚きがひろがるのが分かった。というのも、ディキンソンの詩は、20世紀初頭のイマジズムを先取りするかのように、解説的になることを極力避けた直感的なものが多く、時に難解、いや不可解とさえ思える詩も多いからだ。各篇は短く、俳句に例えられることもあるぐらいである。recluse(世捨て人)とも形容された彼女の生き様やたった一枚現存する写真が与える印象も手伝って、私はこの詩人をアメリカ文学の神殿の奥に置いて崇敬してきた。それが、「テキサスの黄色いバラ」だなんて…。その時だった、見学者の誰ともなく、紹介された詩を「テキサスの黄色いバラ」のメロディーに合わせて歌い始め、他の見学者がそれに唱和したのだ。
Because I could not stop for Death, 私は死を迎えに行けないから
He kindly stopped for me; 死のほうが親切にも迎えに来てくれた
The carriage held but just ourselves 馬車に乗っていたのは私たち二人と
And Immortality. 永遠とだけ
We slowly drove, he knew no haste, 馬車をゆっくり進め、死は急がなかった
And I had put away だから私は仕事も
My labor, and my leisure too, 余暇も置いてきたのだ
For his civility. こんなに礼儀正しくされたからには
….3
すると、深遠な歌詞と軽快なメロディーがほんとうにぴったりと合って、歌った見学者たち自身が驚き、そして笑い出したのだ。もちろんディキンソンが「テキサスの黄色いバラ」を念頭においてこの詩を書いたわけではないだろう。また厳密にいえば「テキサスの黄色いバラ」は表現が口語的であるために、バラッド・ミーターに準拠していない行もある。しかしディキンソンの詩のほうは、全くのバラッド・ミーターである。ガイドが言いたかったのは、ディキンソンがその研ぎ澄まされた詩想を、讃美歌などで用いられる当時のアメリカ人にとって最も親しい、最も平易な韻律に載せた、ということなのだろう。詩集を紐解くと確かにこの韻律で書かれた詩が他にも多く見られた。
見学者たちの笑顔は、アメリカ人にとってもディキンソンが神話化されてきたこと、それがガイドの一言によってほぐされたことを語っていた。脱神話化、という言葉がこれほど身に沁みたことはなかった。
注:
1. Christy’s Plantation Melodies. No. 2 (Philadelphia: Fisher &Bros., 1853), p.52. https://digital.library.pitt.edu/islandora/object/pitt%3A31735061819656/viewer
2. Video version of “The Yellow Rose Of Texas” by Mitch Miller.
3. Emily Dickinson, Selected Poems and Letters of Emily Dickinson, ed. Robert N. Linscott (New York: Anchor Books, 1959), p. 151, ll.1-8.
https://www.youtube.com/watch?v=q29aJSpA2o0