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バラッドの作者および伝承媒体としてのハープ奏者
≪アイリーン・アルーン≫を例に 寺本圭佑_(2012/5)
0. 発表の目的
アイルランドのバラッド≪アイリーン・アルーン Eibhlín a rún≫は、17世紀以前のハープ奏者兼詩人のオダリー Cearbhall Ó Dálaigh によって作られたと言われます。18世紀以降、この曲はダブリンの劇場で繰り返し演奏され、いわゆる「クラシック音楽」としてハープ以外の楽器のために編曲され出版されるようになりました。
元々ハープで演奏され歌われていたと思われる≪アイリーン・アルーン≫は、どのようにしてクラシック音楽に採り入れられたのでしょう。また、18世 紀のハープ奏者たちによってどのように伝承されていたのでしょうか。本報告ではこの点に着目し、考察を深めていきたいと思います。
1. バラッドの作者オダリー
≪ アイリーン・アルーン≫には様々なエピソードが残されていますが、共通しているプロットはオダリーというハープ弾きがアイリーンという女性と駆け落ちするという内容です。オダリーはアイルランド南部マンスター地方の出身とされますが、活躍時期に関しては諸説あり、13世紀から17世紀初頭と大きな幅があります。16世紀以前のアイルランドでは、詩人とハープ奏者と朗唱者の分業が行われており、詩人は詩作だけを行い自分で歌うことはありませんでした。しかし分業による演奏様式は、「伯爵の逃亡」が起こった17世紀初頭を境に次第に行われなくなります。例えば、18世紀アイルランドのハープ奏者カロラン Turlough O’Carolan (1670-1738) は作詞、作曲、演奏、朗唱をすべてひとりで行っていました。つまり、オダリーがバラッドを作って自分で弾き語りをしていたのだとすれば、17世紀以降の人 物である可能性が高いと言えるでしょう。
2. 18世紀アイルランドの音楽事情
1691年のウィリアマイト戦争に敗れた後、ダブリンには植民者によって次々と劇場が建てられるようになり、英国や大陸から招かれた音楽家が演奏会を開いていました。その結果、18世紀のダブリンはロンドンに次ぐ規模の音楽消費都市として発展していきました。
1729年、ダブリンのコフィ Charles Coffey (d.1745) によるバラッド・オペラ≪乞食の結婚 Beggar’s Wedding≫がスモック・アレイ劇場で初演されました。この作品で初めて≪アイリーン・アルーン≫が採り入れられ、これ以降この曲はダブリンで繰り返し演奏されるようになりました。
同時にこの曲は主に器楽曲として楽譜出版されるようになりました。1729年のコフィのバラッド・オペラから、1921年の民謡協会までの約200年間で、少なくとも50回は出版され、あるいは手書きの楽譜に記されてきました。
3. ニール父子
18 世紀アイルランドの楽譜出版の先駆けとなったものに、1724年ダブリンのニール父子 John/ William Neale が出版した A Collection of the most celebrated Irish tunes があります。これはアイルランドの民謡が初めて出版された曲集として重要視されています。ニール父子は18世紀前半のダブリンの音楽界における中心人物で した。ウィリアム・ニールはフィッシャンブル・ストリート劇場を設立し、そこでヘンデル Georg Friedrich Händel (1685-1759) の≪メサイア≫が初演されました。コンサートマスターを務めたヴァイオリン奏者デュブルグ Matthew Dubourg (1703-1767) は≪アイリーン・アルーン≫の変奏曲を作曲し出版しています。≪アイリーン・アルーン≫を賞賛していたといわれるヘンデルは、おそらくデュブルグの演奏を 聞いていたのでしょう。
ニール父子の曲集にはカロランが作曲した≪オルークの饗宴≫が収録されています。この歌詞の英訳を行ったのは作家スウィフト Jonathan Swift (1667-1745) でした。このような状況に鑑みると、ニール父子を中心としたクラシック音楽のサークルの中に、ハープ奏者が関わっていたことは十分に考えられます。ここか らコフィに≪アイリーン・アルーン≫やその他のハープ音楽を教えたのも、ハープ奏者だったと考えるのが自然でしょう。
4. ライオンズと弟子が伝承していた≪アイリーン・アルーン≫
ニー ル父子やコフィらにハープ音楽を教えたのは誰だったのでしょうか。カロランの友人ライオンズ Cornelius Lyons (c.1680?-c.1750?) は当時≪アイリーン・アルーン≫の変奏曲を作曲したことで有名でした。ライオンズは南部マンスター地方出身で、カロランや多くのハープ奏者とは異なり、盲 目ではなく楽譜の読み書きができました。
ライオンズによる≪アイリーン・アルーン≫の変奏曲の自筆譜は現存しません。しかし、彼は2人の盲目のハープ奏者にこの曲を教えており、その演奏を 書きとった楽譜が残されています。ひとりはオカハン Echlin O’Cathain (1729-aft. 1791)、そしてもうひとりはヘンプソン Denis Hempson (1695-1807) です。
オカハンはスコットランドで歓迎されており、そこでパトリック・マクドナルド牧師 Patrick MacDonald (1729-1824) が彼の演奏を採譜していました。マクドナルドの手稿譜は発見されていませんが、その写しである『マクリーン=クレファン手稿譜 MacLean-Clephane MS.』がダブリンのトリニティ・カレッジ図書館に所蔵されています。
ヘンプソンは1792年ベルファストで開催されたハープフェスティヴァルに参加しており、鍵盤楽器奏者バンティング Edward Bunting (1773-1843) が彼の演奏を書きとっていました。その後もバンティングはヘンプソンの自宅を訪れ≪アイリーン・アルーン≫を採譜しています。その時のスケッチが『バン ティング手稿譜 Bunting MS.』としてベルファストのクイーンズ大学図書館に残されています。この楽譜とオカハンの楽譜を比較してみると、相違点が認められます。大きな違いは変奏の数です。オカハンが5つの変奏を演奏していたのに対し、ヘンプソンの変奏はひとつしかありませんでした。また、オカハンの旋律は18世紀の出版譜に見られるものと類似しているのに対し、ヘンプソンは民謡風の音階を採り入れていました。
バンティング手稿譜のスケッチには his, mine という文字が見られ、2種類の音型が書かれています。ここでhis として書かれているのはライオンズ、mineはヘンプソンを指していると考えられます。このように、ヘンプソンはライオンズから学んだ古いヴァージョンをよく記憶にとどめつつも、新たに自身のヴァージョンを創造しながらバラッドの音楽を継承していたことがわかります。
5. バラッドの音楽の伝承におけるライオンズの位置づけ
17 世 紀以前に、オダリーによって≪アイリーン・アルーン≫のバラッドが作られました。その後、南部マンスター地方のハープ奏者を介して、同郷のライオンズに伝承され、彼はこれを変奏曲に書き換えました。ライオンズはオカハンとヘンプソンに教え、その演奏はそれぞれバンティングやマクドナルド、マクリーン=クレファンによって楽譜に書きとられました。ライオンズが変奏曲を書いた時期が1729年以前だったとすれば、彼はコフィやデュブルグらにこの曲を教えた可能 性があります。
あるいはその逆も考えられます。ライオンズは楽譜の読み書きができました。したがって、デュブルグらの変奏曲の出版譜を見て、当時流行していた演奏様式を伝統的なハープ音楽に取り入れたのかもしれません。
ライオンズがコフィやデュブルグ、ニールらに情報提供をしたのか、その逆だったのかは定かではありません。いずれにせよ、ライオンズが伝統的なハー プ音楽に変奏曲の形式を採り入れ、それを後進のハープ奏者たちに教えていたことは間違いありません。≪アイリーン・アルーン≫は、クラシック音楽として劇場音楽に形を変えて受容されていく一方で、ハープ奏者たちによっても演奏され続けていました。ライオンズは元々アイルランド語で歌われていたバラッドの器楽化を 行うことによって、伝統音楽とクラシック音楽の橋渡しとしての役割を果たしていたと言えるでしょう。18世紀のハープ奏者は、クラシック音楽と伝統音楽の 間で適度な距離感を保ちながら活動を続け、バラッドの伝承媒体としても大きな役割を果たしていたのです。